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December 10, 2011

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (9)

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   2011年12月3日撮影 春採駅踏切(駅舎はこの左手)

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   2011年12月3日撮影 踏切の右に春採駅が見える

 南側の丘から踏切方面を撮影したもの。南北を丘に挟まれた地形であることがわかる。なお踏切左手に見える機関車は、青が D801、オレンジ色が D701型である。

 今回の記事は昭和26年から29年まで。


戦後の復興
(2)

 昭和26年3月28日、運輸省の地方鉄道運転規則にもとづき、釧路臨港鉄道運転取扱心得を制定。

 昭和26年6月、太平洋炭礦全面海底下採炭へ移行。

 昭和26年8月より社員の誕生祝が催され、社長の祝言と菓子折が贈られた。


 一見地味なニュースのようだが、実は大きな意味があるように思う。戦後の混乱期が一段落し、人々の気持に少し余裕ができたことをうかがわせるからだ。

 昭和26年9月8日、日米安保条約調印。

 この条約が締結されたのは昭和30年1月である。それに反対して、いわゆる60年安保闘争(立場によっては「闘争」といわず「騒動」というらしい)が展開されたことはご存じのとおり。

 昭和26年9月22日、釧路港重要港湾に指定される。

 ぼくははじめて知ったのだが、戦後釧路港は外国貿易不振を理由に、一時不開港に格下げになる危機を迎えたらしい。不開港になれば検疫や税関の入港手続きができなくなるから、これは大ピンチである。その危機を回避して重要港湾に指定されたことの意義は大きい。

 昭和26年9月、国鉄より客車1両(ナハ1号 定員110名)を譲り受けて使用を開始(この客車は昭和28年11月17日、ディーゼル動車キハ1001号に改装された)。

 昭和26年10月、埠頭3号上屋(826平米)1棟が完成。

 昭和27年1月28日、国鉄払い下げの蒸気機関車1両(10号機関車と同型)を11号機関車として導入、2月より使用開始。

 昭和27年3月4日午前10時過ぎ、十勝沖地震(M8.3)が発生、東釧路~春採間2.5km付近および春採~知人間5.4km付近の線路・道床が被害を受けた。


 当地方は地震多発地帯だが、この地震は津波をともない、

 死者8人、負傷者36人を出し、津波に襲われる恐怖感から、幣舞橋を通り高台へ避難する3万人もの市民で大混乱になった。施設損害では、特に釧路川市設魚揚場岸壁、北埠頭の港湾施設を中心とする公共施設の打撃が甚大だった。-『釧路港開港百年記念誌』(平成12年 釧路新聞社)

 特に甚大な被害を受けたのが、昭和25年12月に完成したばかりの北埠頭であった。また、

 太平洋炭砿ではズリ山が崩れ炭住二戸が一気に押しつぶされた。学校などの集合煙筒も落下した。火災が発生し、刑務所の大塀も大半くずれた。-『目で見る釧路の歴史』(平成4年 釧路市)


 なお『目で見る釧路の歴史』によれば、地震による死者は16人、負傷者30人で、『釧路港開港百年記念誌』の記述と大きく食いちがっている。20世紀の事件にしてかくのごとし。本気で歴史の勉強をするつもりなら、多くの資料を参照して確認せねばならぬことがこれからもわかる。

 余計な話だけれど、邪馬台国などはまともな文献が『魏志倭人伝』しかないのだから、画期的な考古学的発見でもないかぎり、あと百年かかっても決着はつくまいと思う。


 昭和27年9月30日、東釧路~城山間1.635kmより分岐する加藤ベニヤ工場専用側線(延長172m)新設。

 昭和27年10月25日、知人~臨港間8.260kmより分岐する東栄工業工場専用側線(延長67m)新設。


 これらの側線はのちに撤去され、現在は存在しない。

 昭和27年12月1日、知人駅本屋新築工事竣工。

 昭和28年5月1日、東釧路~春採間2.5kmに永住町停留所を新設して旅客取扱いを開始。


 いま永住町という町名はないが、地図には春採7丁目に「永住住宅」が、武佐1丁目にはくしろバスの「永住」バス停留所が記載されている。

 昭和28年5月18日、定時株主総会において、機関車増強・埠頭上屋新築等の資金に充当するため、1,000万円の増資を議決、資本金2,000万円(総株数40万株)となる。

 昭和28年6月、国鉄より無蓋貨車トム5両払い下げ。

 昭和28年11月27日、ディーゼルカー(キハ1001号)運転開始。これは昭和26年9月に国鉄より譲り受けた客車1両(ナハ1号 定員110名)に120馬力エンジンとトルクコンバーターを取り付けて改造したものである。

 昭和28年11月30日、埠頭新5号上屋(331平米)が完成。小野田セメントサイロ・包装工場敷地にするため、旧5号上屋は撤去された。

 昭和29年3月24日、沼尻踏切道保安強化のため踏切警手を配置。

 これは記憶にはないけれど、年表によると、沼尻の踏切遮断機が電動式に変更されたのは昭和41年5月11日だから、実際はぼくも手動遮断機を目にしていた可能性が高い。たぶん忘れてしまったのだろう。

 昭和29年4月30日、定時株主総会において、無蓋貨車増備・ディーゼル動車改造・社宅買取等の資金に充当するため、2,000万円の増資を議決、資本金4,000万円(総株数80万株)となる。

 昭和29年8月16日、天皇・皇后釧路市に行幸。

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      2008年1月20撮影 竹老園の蘭切りソバ

 昭和天皇皇后両陛下が蘭切りそばを召し上がり、天皇がお代わりされたというのはこのときである。ただし竹老園のサイトによれば、お食事の場所は六園荘であった。

 だからどうした、といわれればそれまでだが、国外はともかく国内に平和が到来したことを実感させるニュースではあると思う。

 さてこうして年表をざっと追ってみるだけでも、戦災にあった埠頭の再建や車両の増強など、戦後の復興がほぼ完了し、昭和30年を迎えたことがわかる。

 次回からは昭和30年代に入り、2005年1月に春採駅で撮影した写真にもいよいよ出番がやってくる。

(つづく)

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