« Daily Oregraph: 腹一杯、胸一杯 | Main | Daily Oregraph: イヌホオズキよさらば »

December 02, 2011

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (7)

550331minami
 これは父の遺した写真で、ネガアルバムには「1955(昭和30)年3月31日 釧路港 南」とメモされている。

 当時釧路港の商船岸壁は南埠頭と北埠頭だけであった。景色から見て北埠頭ではありえないし、住人が南北をまちがえるはずはない。写真の左手に倉庫が見えるところからも南埠頭にちがいない。

 だとすれば、背景に写っている一見桟橋状のものはなんだろうか? 南防波堤に関係するなんらかの工事が行われていたのかもしれない。興味があるので宿題にしておこう。

 なお位置関係から考えて、写真の會福丸は石炭ではなく一般雑貨を荷役中ではないかと思う。

070825_01

   2007年8月25日撮影 南防波堤から見た南埠頭

 さて今回は戦時中から太平洋戦争終結までの時期を扱う。


戦時下の臨港鉄道

 昭和17年4月、太平洋炭礦知人貯炭場2号高架桟橋(コンクリート製 延長132m)完成。

 現在高架桟橋がふたつあることは、第2回に掲載した写真をごらんになればわかるとおりである。

 ここでは太平洋戦争の戦史をあらためて勉強するつもりも余裕もないが、昭和17年6月、ミッドウェイ海戦に敗れたことにより大勢は決した。かりにこの海戦に勝利したところで、もともと勝ち目のある戦争ではなかった。

 昭和17年10月20日、真砂町停留場廃止。

 昭和18年3月、蒸気機関車(8号)を新造・導入。

 昭和18年7月、時刻を24時間制と定める。

 鉄道の世界は最初から24時間制だと思いこんでいたから、これは新知識である。

 戦局の進展により船腹が不足し、釧路港では約5割減となり、石炭の積み出しが激減した。

 昭和19年8月11日、閣議決定による転換命令により、太平洋炭礦春採坑は保坑、別保坑は休坑となる。そのため出炭停止となり、鉄道経営上打撃を受けることとなった。

 増収策として昭和18年7月には10割増、昭和19 年10月には20割増の大貨物営業粁程割増認可を申請したが、認可されたのは戦後の昭和20年12月8日、実施されたのは昭和21年4月1日であった。

 また昭和19年12月15日より、従来無料取扱いであった埠頭側線・陸海軍専用線発着の貨物に対し、側線使用料(1トンにつき20銭)を設定実施、昭和20年4月1日には旅客運賃が5銭~30銭から10銭~40銭に改定された。

 ようするに戦局は当初の強気で楽観的な見通しどおりには進展せず、次第に敗色濃厚になっていったことが、上の記述からもうかがえる。

 脇道に入ることは極力避けるつもりだったが、せっかくの機会だから、ここで日本海運界の状況について概観しておこう。


太平洋戦争下の海運界


 この節のうち茶色で示した部分は、すべて『日本郵船株式会社百年史』(昭和63年)の要約であることを最初にお断りしておく。

 開戦時の100総トン以上の鋼船は、大連・中国など外地の置籍船を含めて、総計で2,578隻、650万総トンであり、世界第3位を誇っていた。

 そのうち陸海軍に徴用された船舶を除く1528隻、243.6万総トンは、昭和17年4月以降、日船舶運営会の管轄のもとに、ほぼ完全な国家管理に移行した。そのうち官庁用船と沿岸航路定期船などを差し引くと、物資動員計画対象船は584隻、177.8万総トンに過ぎず、船腹はおおいに不足したのである。


 しかも作戦が一段落すれば陸海軍から約110万総トン返還されるはずが、戦局の悪化とともに、返還どころか41万総トンが追徴されることとなった。


 当初の見通しが楽観的であったことはこれからもわかる。

 戦時中の100総トン以上の鋼船船腹の推移は下表のとおり。カッコ内の数字は物動対象船(不稼働船を含む)を示す。

昭和16年12月 2,529隻 633.7万総トン
(  584隻 177.8万総トン)
昭和17年10月 2,632隻 615.8万総トン
(1,064隻 268.9万総トン)
昭和18年10月 2,749隻 554.7万総トン
( 809隻 202.7万総トン)
昭和19年10月 2,638隻 385.3万総トン
( 943隻 188.0万総トン)
昭和20年  8月 2,018隻 220.7万総トン
( 653隻 131.5万総トン)

 もちろん戦時中にも船舶の建造は行われた。第1次~第3次戦標船(戦時標準型船)合計1,036隻、263.6万総トンがそれである。しかし戦標船の質の低下は覆うべくもなく、材料の払底により、政府によって木造船の増産計画が立てられるほどであった。

 この場で先の戦争についてあれこれ論ずるのは適当ではないと思う。しかし木造船を建造せねばならないような惨憺たる状況下で強引に戦争を継続しているうちに、終戦の時期を誤ったことは否定できないだろう。

 
一方戦争海難によって失われた船腹は以下のとおりである。

昭和16年    9隻   4.8万総トン
昭和17年  204隻  88.4万総トン
昭和18年   426隻 166.8万総トン
昭和19年 1,009隻 369.4万総トン
昭和20年  746隻 172.2万総トン


 船舶とともに多くの船員が犠牲になったことはいうまでもない。

終戦へ

 こうしてずるずると無理な戦争をつづけているうちに、南埠頭は壊滅的な損害を受ける。

 昭和20年7月14日、米軍の空襲により南埠頭は甚大な損害をこうむり、石炭ローダーは無事であったが、上屋は5棟が貨物とともに焼失、わずかに1棟のみ焼失を免れるという惨状であった。

 この空襲について『三ツ輪運輸五十五年史』から引用すると、

 20年7月の釧路空襲は、14日に5回攻撃機延93機、15日に3回攻撃機延12機が来襲した。14日だけで釧路市内は、北大通東部の旭国民学校から幣舞橋が一面の焼野ヶ原となって火焔が天をおおった。-p. 59

 そして、

 
昭和20年8月15日、終戦を迎える。

 昭和20年9月、太平洋炭礦春採坑再開。この年の貨物総輸送量は386,000トンに激減していた。


(つづく)

|

« Daily Oregraph: 腹一杯、胸一杯 | Main | Daily Oregraph: イヌホオズキよさらば »

Comments

The comments to this entry are closed.