December 20, 2016

Daily Oregraph: 『怒りの葡萄』読了

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 『怒りの葡萄』を読み終えた。最後はほとんど一気読みだが、そうさせるのが作家の力量というものだろう。

 この小説を翻訳された某氏のブログを拝見したところ、「この時代の弱者への理解なくしては、『怒りの葡萄』のような作品は理解できない」という意味のことをお書きになっているのには驚いた。

 それでは「しょせん無知な君たちにはわかるまい」というに等しく、いかにも優等生的な発言だと思う。なにもそう一般市民をおどかすことはないのに(笑)。

 もちろん歴史の勉強はしたほうがいいに決まっているけれど、そもそも勉強して予備知識を得なければ理解できないような作品など、広く読まれる古典と呼ぶに値しないと思う。

 むしろ話は全く逆であって、『怒りの葡萄』を読むと、凡庸な歴史書にあたるよりも、当時の弱者の境遇がはるかに身に沁みて理解できるにちがいない。それが文学の力というものだろう。

 しかもこの作品は1939年に発表されたものだから、いささか古いとはいっても、ぼくたちに内容が理解できないことはない。さすがに現在では貧乏も底上げ(?)されたとはいえ、世の中の基本的な構造は変らないからだ。

 収穫を終えたらたちまちお払い箱になる農民の姿は、不安定な身分の非正規低賃金労働者のそれと重なるし、暴力的に農民を追放しようとする保安官代理の姿は、沖縄県民を土人呼ばわりしたヤクザまがいの警察官のそれとぴったり重なる。カリフォルニアに流れてきた農民のこどもが学校で差別され、いじめられる姿にも、やはり重なるものをみつけることができるだろう。

 ぼくはアカデミックな勉強はほとんどしていないし、行き当たりばったりに本を読んできたから、スタインベックはこれがまだ二作目で、最初に読んだのは(いま手元にはないが)『コルテス海航海記』(1941年)である。

 『航海記』は無類におもしろい本だけれど、海洋生物学に造詣が深い作家だけに、やたらむずかしい生物の名前が登場し、辞書を引く手間の多さには泣かされた。そしてこのたびは俗語と方言に泣かされたのだから、まことに困った小説家である。

 そんな極東の一読者に最後まで読ませたのは、なによりも作家の腕前の証明である。ジジイが読んでも沸々と怒りが湧き上がってくる作者渾身の傑作を、若いみなさんにも、この時代だからこそぜひお読みいただきたいと願っている。

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November 16, 2016

Daily Oregraph: 犬がクタクタ

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 いつものコースのいつもの景色。しかし風の冷たいこと! よほどすぐに引き返そうかと思ったくらいである。

 さて毎日ごちそうを食べるわけにはいかないし、そうそうネタなどあるはずがない。そこで先日 cat にはトラクターの意味もあることを書いたから(スタインベック『怒りの葡萄』より)、釣り合いを取って(?)、やはり同書から dog(今回の意味では複数形の dogs を用いる) について豆知識をひとつ。

 次の英文、高学歴を誇る芸能人ならわかるだろうか?

  My dogs was pooped out.

 同じく同書には、

  My dogs is burned up.

という文もあって、こちらは OED にも文例として収録されている。

 もちろん単語の意味は文脈で決まるから、これだけで正解を得るのはむずかしい。しかし原文の前後を見ると、辞書を引かなくとも大体の見当はつくからご心配なく。なお文法がおかしいんじゃないかという苦情は受け付けない。これくらい序の口なんだから。

 -ねえ、おじいちゃん、もったいぶらずに意味を教えてよ。

 -足がクタクタだ。

 -え?

 -だからさ、「足がクタクタだ」という意味だよ。

 -まあ、どうして犬が足の意味になるの?

 -うん、そこだ。dogs も pooped out も俗語だから、覚えたってお受験の役には立たない。だが、「どうして」という疑問を解決しようという気持は大切だな。意味さえわかればいいというものじゃない。

 ……と、いつものおじいちゃんらしからぬえらそうな発言であるが、ついでだから調べてみよう。

 まず dogs だが、これは dog's meat(犬に食わせるエサ用の屑肉など)の略で、feet と韻を踏むから、 rhyming slang(押韻スラング)であると、OED は説明している。

 つまり dog's meat といえば feet が連想される結果、いつの間にか feet の意味として通用するようになり、それが省略されて dogs になったということ。


 なんともまあ、外国人にはわかりにくく、陰に meat が隠れているとは、まことに憎らしい話である。

 次に pooped out だが、どうして「へとへとになった(exhausted)」になったのだろうか? それには深いわけがあって(笑)、どうも船に関係するらしい。

 poop とは名詞では船の「船尾部または船尾楼」を意味し、海上ではそいつが容赦なく波に打たれるから、動詞では「波が船尾を越える、船尾に波を受ける」という意味になる。

 -あら、どうしてそれが「へとへと」になるの?

 -考えてもみなさい。船尾の甲板にザブザブ波をかぶるくらいだから、海は時化ている。船が始終ぐらぐら揺れれば、体はへとへとに疲れるにちがいない。

 -ふ~ん、なんとなくわかったわ。でもおじいちゃんのお話って、ちっとも実際の役には立たないのね。いつものことだけど。

 -ハハハ、だからおじいちゃんにはお金がないのさ。

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November 04, 2016

Daily Oregraph: 20世紀はむずかしい

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 本日の生存証明写真は、知人から米町へ上る坂の途中から見た、石炭列車の終点付近。

 夕方までにかなり弱まったのとはいえ、冷たい風が容赦なく吹きつける。そろそろ手袋を用意しなくてはならないようだ。

 一昨日『アイヴァンホー』をやっと読み終えた。途中浮気をしたせいで時間がかかったのである。

 主人公はもちろんアイヴァンホー(Ivanhoe)なのだが、正確にはアイヴァンホーの領主ウィルフレッド(Wilfred)。紀州の殿様を紀州様と呼ぶようなものだろう。獅子心王リチャード一世(Richard the Lionheart)の寵臣である。

 真田十勇士みたいなロビン・フッド(Robin Hood)一味も活躍するし、柳生石舟斎のような団長に率いられるテンプル騎士団も登場し、波瀾万丈のチャンバラ小説といえないこともない。やや大仰な表現やメロドラマみたいな場面もあるけれど、作者ウォルター・スコット(Walter Scott)は教養の高い人物なので、全体にたいへん格調が高い。

 面倒くさいから(笑)あらすじは省略するが、被征服民であるサクソン人とノルマン人との対立を縦軸に、ユダヤ人差別の問題や、リチャード一世の弟ながら王位簒奪をもくろむジョンの暗躍などがからまって、物語は展開する。

 ノルマン人はサクソン人を豚とさげすみ、ノルマン人、サクソン人の双方ともユダヤ人を犬とののしる、という構造なのだが、実はこの小説の陰の主人公は絶世の美女であるユダヤ人レベッカ嬢(Rebecca)なのだから驚く。ただ美人であるだけでなく、頭脳明晰にして医術に長じ、しかも博愛の精神に富み、窮地に陥っても絶対にへこたれないという、非の打ち所がない女性として描かれている。

 それならアイヴァンホーはレベッカと結婚するかというと、結局はサクソン王家の血筋である美女ロウィーナ(Rowena)と一緒になるわけで、この結末には当時の読者もおおいに不満を抱いたらしい。

 この小説をネタにすればいくらでも記事になるけれど、残り時間の少ない身としては先へ進まなくてはいけないから、このへんにしておこう。岩波文庫に翻訳があるそうなので、お暇な方はぜひ。

 さて昨日からはスタインベック(John Steinbeck)の『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)に取りかかった。舞台がいきなり20世紀のアメリカに移ったため、頭の中は大混乱(笑)、文章のわかりにくさといったらない。

 お勉強にもなるだろうから(?)一例を挙げると、"be tractored out"なんて表現がある。ふつうの辞書を引いたって出てこないけれど、これは大農場主がトラクターを導入したため、不要になった小作人が追い出されることをいう。

 そのトラクターがキャタピラー(Caterpillar)社製だから、略して"cat"だとはお釈迦様でもすぐにはわかるまい。ネコ一匹ではなく、「キャット一台("one cat")で十家族が追ん出される」というんだから、1819年に書かれた小説よりもむずかしく(笑)、時間がかかってしかたがない。やれやれ。

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February 14, 2016

Daily Oregraph: 猫肉屋?

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 へたくそな絵をお目にかけてまことに申し訳ない(笑)。適当な写真がなかったから、しかたなく描いたのである。

 どういう風の吹き回しか、ドリトル先生ものを読んでいたら、なつかしいマシュー・マグ(Matthew Mugg)が登場したので、かつて抱いていた疑問を思い出したのだ。

 こどもの頃愛読した井伏鱒二さんの名訳によれば、マシュー・マグはたしか「猫肉屋」である。常識に従えば「猫」用の肉屋だけれど、ぼくはひょっとしたら「猫肉」屋ではないかと疑っていた。そのほうが一風変った人物であるマシュー・マグにはふさわしいと思ったのだ。

 原作では cat's-meat-man である。まさかとは思ったが OED を引いてみると…… cat's-meat も cat's-meat-man もちゃんと載っていたのにはビックリした。cat's-meat は、もちろん「猫肉」ではなく(笑)、飼い猫のエサとして馬肉などを調製したもので、そいつを売り歩くのがマシュー・マグの商売。

 ついでながら、フランス人とちがって、英国では馬肉を食うことに抵抗を感じる人が多いらしい。ましてや「猫肉」屋などという誤解をしては、野蛮人として袋だたきにされるにちがいない。猫好きのみなさまに軽蔑されてもしかたがないだろう。

 これでまたひとつ、一文にもならぬ知識を得たわい。どうやら一生金とは縁がなさそうだ。

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April 17, 2013

Daily Oregraph: お話の話

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 ここ数日マジメに『嵐が丘』を読んでいた。というよりも、そのすさまじい迫力に圧倒されて読まされたのである。あっという間に残り60頁を切ってしまった。本物とはそういうものなのだろう。

 写真は1955年4月16日に亡父の撮影したものである。紙芝居に見入るこどもたちの食い入るような表情をごらんいただきたい。思うに、文学史上に残る大傑作も、市井の職人がこしらえる紙芝居も本質は同じ。ようするにお話である。

 『嵐が丘』と紙芝居をいっしょにするのはけしからん(笑)、という気むずかしい人も当然いるとは思うけれど、お話である以上、おもしろいというのは第一条件である。古典として残るかどうかは、そのあとの問題である。

 だってまず読んでもらえなくては、聞いてもらえなくては話にならないでしょうが。純文学も大衆文学もヘチマもなく、おもしろさでお話に読者を引きずりこんだあとが作家の手腕の見せどころというものだろう。

 おもしろいといったってレベル
いろいろあるでしょうに、という議論ならもちろんよくわかる。

  こどもたちには黄金バットが「ワハハハハ」と笑うだけでも十分おもしろいけれど、大人にとってはそうはいかないだろう。黄金バットは実は悲しい失恋のはてにヤケを起こしてお面をかぶったのだとか、左翼政党内での権力闘争に敗れてひねくれたのだとか(笑)、株で大損をして世を呪っているのだとか、分別をそなえた大人を納得させるだけの理由、興味を持たせるだけの中身がなければなるまい

 しかしはっきりしているのは、批評家だけがほめたってダメということ。ぼくみたいな凡人がウ~ンとうならなければ古典にはならないにちがいない。

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April 12, 2013

Daily Oregraph: ウィスキーのはかどる話

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 遅くなってしまったが、ノートを読み終えたお祝いのケーキ。どうも妙なクセがついてしまったようである(笑)。

 さて金持ちの好男子エドガー・リントンの求婚に応じたものの、心の底ではヒースクリフを愛するキャシーは、自分を無理にも納得させるため、使用人ネリーの賛意を求めようとする。しかしキャシーをよく知るネリーは、"Why do you love him (=Edgar), Miss Cathy?" と問答式に問いつめる。

 この場面は法廷を思わせるきびしさにあふれ、ネリーは「それはようございました」というようなおべんちゃらはいわず、キャシーの答をひとつひとつ徹底的に論駁する。なんとなく好きなの、という一切のあいまいさやごまかしを赦さないのである。エミリ・ブロンテの性格の一端がうかがわれるような気がする。

 やがて真情を吐露したキャシーのセリフがすごい。彼女が
実はヒースクリフを愛しているのは、ハンサムだからではなく「彼は私よりも私he's more myself than I am」だからなのだという。ヒースクリフと私の魂はひとつなの、というのである。もし舞台で演じたら、観るものみな圧倒されて、場内シーンと静まりかえるところだろう。

 それならヒースクリフといっしょになればいいのに、という当然の疑問は、文庫本をお買い求めの上(笑)解決していただきたい。ちょっと手前勝手ながら、キャシーにはキャシーの言い分もあるのである。

 さてこういう究極の恋愛が地上で成就するとは、ぼくには到底想像もつかない。ヒースクリフとキャシーのような男女が、いわゆる幸福な家庭を築いてめでたしめでたしという結末などありえないことは、物語の最初から予感されるのである。

 この世では結ばれぬふたりが天国でいっしょになるという少女マンガ風の空想もまた、この小説にはそぐわない。このふたりはキリスト教の天国には入れてもらえそうにないから、キャシーの幽霊がそうであったように、荒涼たるヒースを永遠にさまようしかないにちがいない。19世紀半ばに牧師の娘がこういう小説を書いたというのは、ぼくには驚きである。

 それにしてもいい年をしたおじさんがこの空前絶後の大恋愛小説を読むとなれば、とてもシラフではいられない(笑)。ウィスキーのはかどることといったら……

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April 08, 2013

Daily Oregraph: 嵐のあとで

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 昨日強風が吹き荒れたので裏庭の板塀を点検したところ、なんとか無事だったので一安心。おまけに先日いつもの場所からは姿を消したと書いたフクジュソウが、実は遅れて咲いていた
わかり、ちょっといい気分である。

 今日から『嵐が丘』に取りかかる。この作品の初版は1847年で、1850年には姉シャーロットの編集した第二版が世に出た。第二版にはシャーロットが編者序文のほかに 'Biographical Notice of Ellis and Acton Bell' という文章を寄せている。

 カラー(Currer 実は Charlotte)、エリス(Ellis 実は Emily)およびアクトン(Acton 実は Anne)・ベル(Bell)の名で出版されたすべての作品は実は同一人の手になるものだ、と考えられてきた。

 その誤解を完全に解こうという趣旨なのだが、詳しい事情についてはここでは触れないことにする。この文章の読みどころは、早世した二人の妹について書かれた後半の部分にあると思う。

 エミリは1848年12月19日、アンは翌年の5月28日、それぞれ30歳と29歳という若さで病死した。二人に対する深い愛情
と悲しみのこもった文章はまさに天下の名文で、胸に沁みるものがある。

 エミリについて述べた「
男よりも強く、こどもよりも純真で、その天性には並ぶものなかった」という一文はたいへん有名なもので、エミリには vigour(精神力)と simplicity の両極端が同居していたとも評している。エミリは他人には優しい一方でみずからにきびしく、容易に自分を曲げぬ性格、つまり損なたちでもあったらしい。

 末の妹アンはエミリよりもはるかに地味な性格で、いわば常にじっと耐える女性であったらしく、シャーロットはエミリには energy と fortitude(不屈の精神)、アンには endurance と patience(いずれも忍耐) ということばを充てて比較している。

 シャーロットはさすがに作家らしい冷静な眼をもって二人の妹とその作品を評価しているが、世間がなんといおうとも、二人の才能に対する確信はゆるぎなく、

 他人にとっては二人は取るに足らぬ存在であったし、皮相な人々の目にはそれ以下の存在とも映ったが、身近にあってその生涯を親しく知る人々にとっては、二人はまことに善良であり、そしてまさに偉大であったのだといってすべてをしめくくることにしたい。

としている。

 編者序文もまた一読に値する文章で、並々ならぬ洞察力とエミリに対する深い愛情とに満ちている。せっかくいい文章を読んだのだから、今夜はその余韻にひたりつつ……やっぱり一杯やることになるなあ(笑)。

 どちらもたぶん文庫本には収録されているのではないかと思うので、ぜひご一読されるようおすすめしたい。

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November 28, 2012

Daily Oregraph: トラック・システムの話

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 歴史の本なんぞを開くのは何十年ぶりだが、トムスン先生はなかなかの文章家で、まことにおもしろい。お上のお墨付き検定教科書ではこうはいくまい(笑)。

 やはり19世紀の小説を集中的に読んでから歴史を勉強するのは効果的で、ははあ、穀物法とはこういうものだったのか、というふうに、すんなり頭に入ってくる(そのまま抜ける可能性もあるけれど)。

 だれもが知っているように、小説には歴史資料としての価値もある。実際『19世紀のイギリス』でも、当時の労働者の悲惨な状況を説明するために、トム
ン先生は、ベンジャミン・ディズレイリ(Benjamin Disraeli, 1804-1881)の小説『シビル(Sybil)』(1845年)から、かなり長い文章を引用している。

 大急ぎでやっつけたから、まずいところも多々あろうかとは思うが、温かいおおらかな気持で(笑)お読みいただければ幸いである。

 
ディグズ氏のトミー・ショップ(売店)が店を開けた。芝居のかかった劇場の平土間へ向かうように、押し合いへし合い、先を争い、引っぱり合い、金切り声を上げながら、人々は殺到した。身を守る手すりで隔てた高い席では、大旦那のディグズ氏が、澄ました顔をしてものやわらかな微笑を浮かべ、ペンを耳にはさんで、「まあ落ち着いて、お静かに」と、窮屈な思いをしている客たちに向かって、甘ったるい声で呼びかけるのであった。

 難攻不落の要塞ほど頑丈なカウンターの向こうには、その息子である人気者の若旦那ジョウゼフが控えている。この醜い小男は、いばりくさったいやしい根性の持ち主で、その顔には腹黒い意地の悪さが露骨にあらわれていた。そのちぢれのない脂じみた黒い髪、平べったい鼻、ざらざらした赤ら顔、突き出た歯を見れば、父親のおとなしい間のびした顔とはえらいちがいで、まさに羊の皮をかぶった狼そのものであった。

 最初の五分間、若旦那は客に向かって悪態をつくばかりで、ときどきカウンターから身を乗り出して、先頭の女たちをぴしゃりと打ったり、娘っこの髪を引っぱったりしていた。

 「騒ぐんじゃねえぞ。そっちへ行ってこてんぱんにしてやるからな。なんだと、このあま、耳がねえのか。なんていったんだ? 上等の紅茶をいくらほしいんだって?」とジョウゼフはいった。

 「あたしゃ、いりませんよ」

 「おめえに上等の紅茶なんて用はねえ
。三オンスも買ってみな、空っけつになっちまうさ。四の五の抜かしたら、叩きのめしてやるぞ。そこのひょろっとしたねえちゃん、だれだか知らねえが、そこから前へ出たら、次の勘定日まで外へ出られねえように傷をつけちまうぞ。くそったれめ、連中を黙らせてやるぜ」というと、ジョウゼフはヤード尺をつかんでカウンターから身を乗り出し、右や左を打つのであった。

 「あっ、なにをするんだい!」とひとりの女が叫んだ。「うちの赤ん坊の目が飛び出たじゃないか」

 うめき声に近いかすかな声が聞こえた。「どこの赤ん坊がケガをしたって?」と若旦那のジョウゼフは声をやわらげてたずねた。

 「あたしの子ですよ」と憤慨した声が答えた。「メアリ・チャーチよ」

 「ほう、メアリ・チャーチかい!」と、この悪意に満ちた鬼のような男はいった。「そんならメアリ・チャーチに上等の葛粉
(傷の治療に使われた)を半ポンドも当ててやるさ。ガキにはそいつが一番効くんだ。ここを幼年学校とかんちがいして、くそガキどもを連れてくるおめえにもいい薬になるだろうしな」

 この場面はけっしておおげさに誇張したものではなく、ディズレイリはほとんど自分の見たままを書いたのだという。このように歴史家
も尊重するのだから、文学の威力をバカにしてはいけない。

 トミー・ショップ(tommy-shop)というのは、トラック・システム(truck system 現物給与制)の労働者向け売店のことである。この制度では、労働者は現金の代わりに現物または物品引換券を支給されるのだが、トミー・ショップでの購入が前提となる。

 もともと低賃金のうえに、ささいなことで難癖をつけられて罰金を徴収され、やっと手にしたわずかの収入も、そっくり売店で回収されるのだから、悪辣にして非人道的な搾取システムというほかない。トラック・システムがやがて違法となったのも当然であろう。

 ところでディズレイリは二度も首相を
務めた保守党の大物である。こういう小説を書くほどだから、保守派といえども労働者の窮状に対する理解があり、どこぞの国の総理大臣とは人間の格がちがう。まして大阪のカブ頭氏などとは、比較するのも失礼というものだろう。

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November 26, 2012

Daily Oregraph: 『月長石』のでどころ

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 アカガレイ。名前は知っているが、まだ食べたことはない。なるほどヌメリが赤っぽいので、アカガレイというのか。

 買い物のついでに外付けの HDD を一台。2TB のものが 9千円を切って買えるのだから、ずいぶん安くなったものだ。現在使用中のもの(1TB)が
3年半を経過したので、ダブルバックアップ体制を取ることにしたのである。HDD はいつ昇天してもおかしくないので、とにかく怖い。

 さて The Moonstone についていくつか。

 まず Moonstone(ムーンストーンと呼ばれるダイヤ) の陰に moonstone(月長石)ありという、ややこしいお話を、巻末の注記から。

 ウォルター・デ・ラ・メア(Walter de la Mare, 1871-1956)の『1860年代(Eighteen Sixties)』によれば、チャールズ・リード(Charles Reade, 1814-1884)は兄(弟?)がインドから持ち帰った moonstone(月長石)を持っており、それが最初にこの小説(The Moonstone)の着想を与えた。

 つまりコリンズは moonstone という名を、文字どおり月の石という意味でダイヤにあてたわけである。これでモヤモヤがすっきりした。

 なおデ・ラ・メアは、含みの多い詩的な文章を書く人で、どちらかというとじっくり読ませるタイプだと思う。よくイギリスの怪奇小説のアンソロジーに作品が収録されているから、お読みになった方も多いのではないだろうか。

 チャールズ・リードはずいぶん有名な作家らしいけれど、ぼくはまだ読んだことがない。批評家筋の評価はあまり高くないらしく、日本で翻訳が出ているという話も聞いたことがない。それならそれで、にわか19世紀愛好家としては(笑)、作品をひとつくらい読まなくちゃいけないと思っている。

 『月長石』は最初の「本格的」長編推理小説と呼ばれるだけあって、読者に謎解きの楽しみをたっぷり与えてくれる。しかしなによりも舌を巻くのは、人物描写のたしかさだろう。英文学の古典として残るだけの正当な理由は十分にあると思う。

 物語は数人の語り手の手記や登場人物の書簡によって構成されるのだが、もちろんその趣向はコリンズの独創ではない。だがそれぞれの語り手の息づかいまで感じさせる手腕はみごとというほかない。

 たとえばよけいなお節介をして、周囲から嫌われる狂信者ミス・クラックなどは、あまりにも真に迫っているので、コリンズの実体験にもとづくものにちがいないと思ったら、「解説」によると、まさにそのとおりであった。実際にお読みになれば、21世紀の東洋にもこの手の人物がいることに思い当たるだろう。加害者(?)の心理に立ち入って書いているところが、作家の腕前である。

 また直接の語り手ではないが、長い手紙を残して自殺
する薄幸の女性ロザナ・スピアマンもまた忘れられぬ人物のひとりである。彼女の告白の生々しさは息を呑むほどで、その心理描写はとても男性作家の手になるものとは信じられない。この部分だけでもムーンストーン一個分の値打ちはあるにちがいない。

 まあ、長くなるからこのへんでやめておくが、この作品は『白衣の女(The Woman in White)』をしのぐ傑作だとぼくは見た。当時の大ベストセラー『白衣の女』はべらぼうにおもしろい小説だが(岩波文庫版の翻訳がある)、ちょっとオカルト趣味が目立ちすぎる。『月長石』にも出だしに
ややオカルト風味が感じられるけれど、ほんの味つけ程度ですんでいるのはなによりだと思う。

 ノンカロリーのご馳走を味わいたければ、たまにウィルキー・コリンズの小説などはいかが?

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November 24, 2012

Daily Oregraph: 必読書だらけ

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 今日の一日一枚は紫雲台墓地。あちこち歩いているヒマはないから、どんな場所でも撮れるときに撮るのがプロの道(?)というものである。

 本日の読書より。

 「ジェニングズ様、ひょっとして『ロビンソン・クルーソー』はご存じで?」

 私はこどもの頃読んだことがあると答えた。

 「で、それっきり?」と、ベタレッジ。

 「それっきり」

 ベタレッジはうしろへ数歩退いて私を見たが、その憐れみのこもったふしぎそうな表情には、迷信的な畏れが入りまじっていた。

 「こどものとき以来、『ロビンソン・クルーソー』を読んでいないとは」と、彼は私に向かってではなく、ひとりごとをいった。


 この場面から察するに、『ロビンソン・クルーソー』とは、たいていのイギリス人にとって、こどもの頃に読む作品である(あった?)らしい。日本人の場合、まったく読んだことのない人のほうが多いんじゃないかと思う。ぼくはそれこそこどもの頃に少年少女向けの翻訳を読んだけれど、たぶん完訳ではなかっただろう。

 ベタレッジ老のように、ほとんど聖書がわりに愛読する人もいるほどだから、これはぜひ原作を読まなくちゃいけない。しかし初版は1719年だから18世紀か……う~む、再来年に回すことにしよう(笑)。


 19世紀だけでも必読書は山ほどあるのだから、気が遠くなってくる。時間との競争だな。

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