January 09, 2012

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (14)

 最終回は写真特集である。これまでの連載記事中に掲載しなかった写真のみを掲載するが、過去に別の場所で発表ずみの写真も一部まじっていることをあらかじめお断りしておきたい。

ディーゼル機関車編

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   2001年1月29日撮影 D401(知人にて)

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   以上2005年1月14日撮影 D401運転室内(春採駅にて)

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   2001年1月29日撮影 DE601(知人にて)

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   以上2005年1月14日撮影 DE601運転室内(春採駅にて)

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   2005年3月5日撮影 D801(観月園付近)

 D801は『臨鉄60年の軌跡』には登場しなかったから、昭和59年以降に導入された機関車である。

釧路コールマイン構内編

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 太平洋炭礦時代の施設がそっくり残る貴重な遺産である。21世紀にいることを忘れさせる景色はすばらしいとしかいいようがない。ぼくは夢を見ているような気分になって、しばし茫然としていたことを覚えている。


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 これは函車。平坦な場所ではつぎにお目にかける電車によって、斜坑ではワイヤーによって牽引される。資材運搬用だが、ズリを運ぶのに用いられることもあるらしい。

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 パンタグラフのあるれっきとした電車である。釧路市内に電車が走っているとは驚きであった。

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 こちらはバッテリー・ロコと呼ばれているらしい。ロコは locomotive の略だろうか。

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   以上2005年1月14日撮影

 ごらんのとおりバッテリーがぎっしり。

最後に


 このたびは臨鉄の社史を通じて郷土史のおさらいをさせていただいたけれど、釧路市民であるにもかかわらず基本的な知識に欠けるところが多く、いささか消化不良気味の連載に終わってしまった。今後とも臨港鉄道には関心を持ちつづけ、新しい資料を探すなどして、乏しい知識に肉づけしていきたいと思っている。

 なお臨鉄の詳細な歴史を公にしてくださった太平洋石炭販売株式会社には心より感謝申し上げるとともに、貴重な写真を勝手に転載するなどの無礼については、どうかご容赦のほどお願い申し上げます。もしご指摘があればただちに削除いたします。

 最後に地味な保線作業に従事されているみなさまに敬意を表して、作業中の写真をお目にかけたい。

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   2009年4月5日撮影

(おわり)

【付記】

 2005年1月14日付けの春採駅構内の機関車運転室内、釧路コールマイン構内の写真は、すべてご許可をいただいて撮影したものであることをお断りしておきます。当日ご案内くださったスコップさんには、あらためて感謝申し上げます。

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January 06, 2012

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (13)

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   2005年1月14日撮影 春採駅構内

 『臨鉄60年の軌跡』を読むのも、いよいよ今回が最後になる。同書の年表は昭和58年(1983年)で終わっているからである。


新体制発足


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   2005年1月14日撮影 D701

 昭和53年4月、新造ディーゼル機関車D701(日本車輌製 重量55トン 定格出力500馬力×2)を導入し、4月15日より使用開始。

 昭和53年5月、新東京国際空港(成田空港)開港。


 この空港は地元農民に新左翼各派が加わった大規模な反対運動を押し切って開港を強行したのだが、それももう忘却の彼方に消え去ろうとしている。

 昭和53年7月24日、春採~知人間重軌条更換工事竣工(40kg→50kg)。

 昭和53年10月7日、春採~知人間軌道表示ならびに沼尻踏切非常用て子取付工事完了。

 昭和53年11月、石炭車セキ6両国鉄より払い下げ。

 昭和53年12月、石炭車セキ6両廃車。

 昭和54年2月20日、ディーゼル機関車D501廃車。

 昭和54年3月22日、東釧路~春採間、0.321kmから1.821kmまでの重軌条更換工事竣工(30kg→40kg)。

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 昭和54年4月30日、太平洋炭礦炭の流通部門一体化を図るべく、釧路臨港鉄道株式会社は太平洋石炭販売輸送株式会社に吸収合併され、釧路臨港鉄道事業本部として翌5月1日より新体制下に入る。


 この歴史的な出来事を、ぼくは恥ずかしながら記憶していない。当時はあまり熱心に地元紙を読んでいなかったせいだろうと思う。

 写真は2005年1月14日撮影のものだが、現在も変わっていない。太平洋石炭販売輸送株式会社サイトの最新の「事業案内」では輸送部とされているので、輸送部鉄道課ということだろう。『臨鉄60年の軌跡』(昭和59年11月)発行後、時期はわからないけれど、組織変更が行われたのである。

 昭和54年11月30日、知人駅本屋改築工事および春採駅構内照明設備改良工事竣工。

 昭和55年1月14日、機関区敷地内に機関車用軽油タンク1基(8,500リットル)新設工事竣工。

 昭和55年5月、石炭車セキ5両国鉄より払い下げ。

 昭和55年8月、新造連接石炭車セキ2両導入。

 昭和55年11月28日、知人港頭着太平洋石炭の一日当たり輸送量が10,800トンに達し、開業以来の新記録を樹立した。


 大正7年に木村組によって馬車軌道が全線複線化され、月間6,000トンの輸送が可能になったことは、この特集第5回に述べたとおりである。

 昭和56年3月3日、春採保線用品庫新築工事竣工。

 昭和56年4月、石炭車セラ4両廃車。

 昭和56年8月31日、グリーンベルト・花壇造成など春採地区環境整備が完了。

 昭和56年9月10日、春採駅継電連動装置を一部改良し、制御盤に進路表示灯が増設される。

 昭和57年4月1日、安全管理室を新設。

 昭和57年4月15日、東釧路~春採間重軌条更換工事竣工(30kg→50kg)。

 昭和57年4月20日、貨物運賃改正実施(6.8%アップ)

 昭和57年8月1日、運転取扱心得改正施行。

 昭和57年9月30日、太平洋製作所に発注した保線作業用マルチプルタイタンパーが試作完成。

 昭和57年11月9日、春採駅構内にマルチプルタイタンパー格納庫新設工事竣工。

 タイタンパーが保線用機械であることはすでに第10回に述べ、保線作業に使用されていた車両がたぶんそれではないかと思い、写真を掲載した。

 今回冒頭に掲げた写真 はその車両を反対方向から見たものである。未確認だけれど、これが「マルチプル」タイタンパーなのかもしれず、冬期間にはラッセル車としても活躍するらしい。確認するためには、もう一度取材する必要がありそうだ。

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   2012年1月2日撮影 釧路市春採下水ポンプ場と踏切

 昭和58年7月25日、市営春採ポンプ場踏切道新設工事竣工。

 このポンプ場裏手の丘の上には、春採竜神の小さな祠がある。

 昭和58年11月10日、市道変更改良にともなう桜ヶ岡踏切道改良工事竣工。

 『臨鉄60年の軌跡』の年表はここで終わっている。以下に本文の最終章「今後の輸送体制について」を全文引用する。

 日本国有鉄道100年有余の歴史のなかでも、とりわけ昭和40年代後半から日本経済の構造変化にともなって物流を取り巻く環境は著しく厳しさを増して来ました。

 特に、道路輸送の発達や内航海運の進展にともない物流量が著しく増加しているにもかかわらず鉄道輸送量は減少の一途を辿っています。釧路臨港鉄道としてもその輸送量は国鉄に比例して減少しつつあるのが現状です。

 しかし、当社は今後とも国鉄との連絡運輸の使命を果たすと共に、全国に誇る国内唯一の海底炭礦である太平洋炭礦の石炭輸送を主力として、高能率と安定輸送を推進させる。ここに大きな使命を置くものです。


 臨鉄の社史発行時からさらに30年近くが経過し、その間昭和62年(1987年)には国鉄が分割民営化され、平成4年(2002年)には太平洋炭礦が閉山して釧路コールマインが採炭事業を継承するなど、状況は一変した。

 臨鉄の運行区間も現在では春採駅~知人駅のみとなり、国鉄との連絡運輸もその他の駅の廃止とともにその使命を終えた。各駅の廃止時期など、昭和59年以降の歴史についてもおおいに興味のあるところだが、それを知るためには新たな資料を必要とすることもあり、この特集はひとまず終えることにする。

 次回は最終回として、主に未発表の写真を取りまとめ、一挙掲載することにしたい。

(つづく)

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January 03, 2012

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (12)

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   2007年8月25日撮影 南防波堤から見た石炭ローダー

 本日をもって連載を完結しようかどうか大いに迷ったのだが、分量的に考えた結果、今回は昭和46年から昭和52年までを扱うことにした。『臨鉄60年の軌跡』では、この時期からの記事が本文ではかなり簡略化されているけれど、付属の年表には多くの出来事が記録されているからである。

創立50周年へ

 昭和46年1月1日、札幌大谷地営業所開設、倉庫営業開始。

 昭和46年1月、釧路西港着工。

 昭和46年4月14日、春採保線班に4頭タイタンパー2基配置される。

 昭和46年6月17日、コンピュータによる車扱貨物通知書の作成を開始。

 昭和46年6月23日、テレックス導入使用開始。


 テレックスについては、1993年に釧路丹頂ネットに掲載した「C挫折記 上」第2回以降をお読みいただければと思う。テレックスの存在もいずれ忘れ去られてしまうにちがいない。

 昭和46年7月1日、浦見町に臨鉄クラブ開設。

 浦見町ならわが家の近所なのだが、このクラブには記憶がない。跡地がわかれば取材したいものである。


 昭和47年2月、コンピュータFACOM230-15導入。

 昭和47年5月29日、太平洋炭礦増産計画に対応した春採駅構内拡張改良工事が竣工。これにより、貨車収容能力が倍増した。

 昭和47年8月1日、浦見町および城山の臨鉄所有遊休地に有料駐車場造成開設。

 昭和47年8月17日、沼尻踏切連動交通信号機設置使用開始。

 昭和47年10月8日、新造連接石炭車セキ2両導入。

 昭和48年10月、中東戦争勃発。OPECが石油戦略を発動したことにより、石油危機が物価高騰を招く。


 いわゆるオイルショック。これはぼくもよく覚えている。当時買い占めによって店頭からトイレットペーパーが消えるという騒ぎもあった。

 昭和48年12月16日、太平洋スカイランドにて、創立50周年記念式典および祝賀会を開催。

 特に地方の企業にとって、めでたく創業半世紀を迎えるというのはそう簡単なことではない。わずか50年といえないこともないけれど、企業にとっても人にとっても、やはり大きい節目にはちがいないと思う。

 昭和49年1月12日、小口扱貨物の取扱いを廃止。

 昭和49年9月3日、貨物運賃を8年ぶりに改正実施(25%アップ)。


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   1974年12月14日 西港石油桟橋の千昌丸
   『釧路港開港百年記念誌』(釧路新聞社)より

 昭和49年12月14日、西港供用開始。

 西港第一船は石油桟橋に接岸した千代田汽船運航の内航石油タンカー千昌丸(2,516トン)であった。

 いささか私事に渡るけれど、本船を担当したぼくにとっては、いまも忘れられない出来事である。雪のちらつく寒い日であった。残念ながらいくら探しても当日撮った写真がみつからなかったので、『釧路港開港百年記念誌』よりお借りした。

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 2007年6月2日撮影 第1埠頭4号で揚荷中のチップ専用船
   (日本郵船運航 M.V. "DYNA VOYAGER")

 石油桟橋につづいて翌昭和50年には第一埠頭が完成し、同年8月21日にはチップ専用船第一船として、4号岸壁に日本郵船運航の十條丸が接岸した。ぼくは本船にも関わったから、まさに西港時代の開幕に立ち会うことができたわけである。

 昭和49年12月20日、物品販売業臨鉄ストア廃業。

 昭和50年7月20日、春採駅本屋改築工事竣工。

 昭和50年11月1日、南埠頭岸壁全面改修工事竣工。

 昭和51年2月、太平洋炭礦出炭量日産12,830トン(23日)、月産269,000トン。ともに創業以来の最高記録樹立。

 当時の石炭移出量は正確に覚えていないが、たしか年間200万トン以上だったはずである。

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   南埠頭付近(「釧路港要覧 2009/2010」 より)

 昭和51年6月8日、南埠頭に全農石油基地建設開始。

 ご参考までに全農石油基地を赤い線で囲っておいた。

 昭和51年11月6日、貨物運賃を改正実施(58%アップ)。

 昭和51年11月、無蓋貨車トラ7両廃車。

 昭和51年12月1日、春採駅保号室改造工事竣工。

 昭和51年12月17日、城山駅本屋新築工事竣工。

 昭和51年12月27日、埠頭事務所新築工事竣工。

 昭和51年12月31日、臨鉄東釧路駅本屋移設改築工事竣工。

 昭和52年3月30日、知人貯炭場桟橋専用線ならびに春採駅構内選炭場2番線重軌条更換工事竣工(30kg→40kg)。

 昭和52年4月30日、埠頭岐線より分岐する全農専用側線(3線総延長747m)を新設。

 昭和52年5月31日、東釧路駅構内改良により側線2線を増設し、6月1日より全農石油輸送を開始。

 昭和52年7月、領海12海里法、200海里漁業水域法施行。


 大型船減船など、200海里規制が釧路の漁業に与えた影響は大きかった。しかし昭和54年からは空前のイワシブームに支えられ、13年間連続して水揚量全国一を記録したことはすでに述べたとおりである。

 昭和52年9月30日、春採・知人保線班各詰所増築工事竣工。

 昭和52年12月30日、春採駅継電連動装置を一部改良し、選炭場専用側線に入換標識を新設。


 次回はいよいよこの連載の最終回である。

(つづく)

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December 24, 2011

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (11)

 本文に入る前に、前回の記事に登場した「臨港駅構内釧路石炭販売会社貯炭場用側線(延長115m売炭線」に関連する写真を掲載しておきたい。

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   2011年12月17日撮影 釧路石炭販売(株)臨港営業所

 写真右手が臨港営業所である。矢印はかつて線路があったのではないかと推定される場所。下の矢印はともかく、上のほうはまずまちがいないと思うので、ついでに反対方向から撮った写真も掲げておこう。

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   2011年12月17日撮影 入舟の線路跡

 臨鉄には側線がたくさんあったから、ここがどの線路なのかは不明だが、探せばほかにも線路跡がみつかるかもしれない。

 さて今回扱う範囲は昭和40年代前半である。

効率化の時代

 昭和40年1月25日、無線局設置の免許を受け、臨港、知人、春採の三ヶ所に基地局を新設、七ヶ所に移動局を設け、列車運行、貨車入換作業連絡用に無線機を採用した。

 昭和40年2月17日、蒸気機関車を全廃。

 これは昭和40年代の到来を象徴する出来事ではないかと思う。

 昭和40年4月、石炭車セキ5両国鉄より払い下げ。

 昭和40年5月、保線作業用タイタンパー2セットを導入し、突き固め作業の能率化を促進。

 タイタンパーとは tie tamper、レールを持ち上げて枕木の下に隙間を作り、砂利を突き固めてから砕石を入れて、高さや左右の歪みを調整する機械らしい(Wikipedia による)。未確認だが、前回掲載した保線作業の写真に写っている車両がたぶんタイタンパーではないかと思う。

 昭和40年7月15日、城山保線班を全廃し、全線を春採保線班と知人保線班の2班に編成。

 昭和40年9月8日、自社開発のセキ号車石炭排出扉自動開閉装置を取りつけた改造車両が認可される。

 昭和40年10月25日、春採駅信号取扱所増築工事竣工。

 昭和41年1月春採~知人間石炭専用列車に上記新型セキ号車編成によるシャトル・トレイン方式を採用して試運転を開始、3月31日に試運転を終了し、4月1日から正式運転を開始した。

 これはセキ号車列の両端に一両ずつ接続した機関車を、往路と復路で交互に使用する方式だろう。石炭を知人で自動排出したらすぐに春採へ戻れるという、たいへん効率的なシステムである。現在も石炭列車はこの方式で運行されている。

 昭和41年4月、事務の効率化をはかり、いちはやく小型電子計算機(オキミニタック1002)を導入。

 昭和41年5月11日、沼尻ならびに選炭場踏切遮断機を電動式に変更する工事が竣工。春採駅構内に人道跨線橋を架設、渡橋式を挙行する。

 昭和41年6月1日、石炭自動排出扉開閉装置開発の功績により、吉田社長が運輸大臣表彰を受ける。

 まだ実際に見たことはないのだが、石炭車の床部分が開き、石炭を重力によって落下させるしくみらしい。究極の省力化だと思う。ぜひ拝見したいものである。

 昭和41年9月15日、春採~観月園間の本線と並行する春採貯炭場専用側線新設工事竣工。

 昭和41年9月、緩急車2両廃車。

 昭和41年10月15日、自社発注新造連接石炭車セキ8両導入(日本車輌製 形式セキ6000 積載重量60トン)。

 前回写真を掲載した石炭車がこの新型車である。自動開閉装置について知っていれば、しくみを詳しく教えていただいたのだが、実に残念なことをした。

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 昭和41年11月12日、新造ディーゼル機関車D501(日本車輌製 重量25トン 定格出力320馬力×1)を使用開始(昭和54年2月20日廃車)。

 D501は廃車になったので写真は撮れない。『臨鉄60年の軌跡』より転載させていただいた。

 昭和41年12月1日、入舟駅(昭和15年開設)を廃止し、臨港駅に統合。

 昭和41年12月、石炭車セキ3両を雄別鉄道に譲渡。石炭車セキ9両廃車。

 昭和42年3月、石炭車セキ6両、無蓋貨車トム5両廃車。

 昭和42年4月1日、改造して自動開閉扉を取りつけたセキ号車に替わり、自社発注新造連接石炭車セキ号車(60トン積)によるシャトル・トレインを本格的に運用開始。春採集会所を設置。

 昭和42年4月13日、石炭車の大型化に対応し、春採~知人間の重軌条更換(30kg→40kg)工事竣工。

 昭和42年6月3日、春採駅西部構内より分岐する非常貯炭場専用側線(延長500m)完成。

 昭和42年9月7日、港町営業倉庫(2号倉庫 825平米)新築工事竣工。

 昭和42年9月30日、港町ガラス専用プレハブ倉庫1棟(198平米)新築工事竣工。

 昭和42年11月20日、同上の倉庫1棟(198平米)新築工事竣工。

 昭和42年12月30日、機関車庫増改築工事竣工。

 昭和43年4月20日、知人駅構内桟橋線入換制御所新設工事竣工。

 昭和43年5月10日、臨港駅構内村上専用側線(延長68m)新設工事竣工(昭和57年9月15日廃止・撤去)。

 昭和43年5月28日、春採~臨港間単線自動閉塞装置ならびに知人駅遠隔制御装置(R.C. 春採駅から知人駅を遠隔制御)の新設工事竣工。

 これもはじめて知った。春採~臨港間についてはタブレット閉塞式が廃止になったわけである。また駅の遠隔操作というのはどんなしくみなのかわからないけれど、ずいぶん思い切った発想である。

 昭和43年6月1日、知人駅を無人駅へ移行。

 昭和43年6月10日、埠頭岐線より分岐するプロパンガス専用側線新設工事竣工(後年廃止・撤去)。

 昭和43年8月6日、港町営業倉庫(3号倉庫 825平米)新築工事竣工。

 昭和43年10月、無蓋車トム5両廃車。

 昭和43年11月11日、春採駅構内選炭場線重軌条更換工事竣工(30kg→40kg)。

 昭和43年11月28日、東釧路~城山間を票券閉塞式からタブレット閉塞式に変更。

 昭和43年12月、コンピュータ FACOM 230-10を導入。


 なお昭和43年には中央埠頭が完成した。のちに西港時代が到来するまで、この埠頭は東港の中核としておおいににぎわった。当ブログ11月21日の記事をご参照いただきたい。

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   2010年11月13日撮影 太平洋スカイランド跡

 昭和44年5月、新造連接石炭車セキ1両導入。太平洋スカイランド、オープン。

 太平洋スカイランド(のちのヒルトップ)については、当ブログ2010年11月13日の記事ご参照。

 昭和44年8月、太平洋炭礦南益浦で採炭を開始。

 昭和44年6月30日、港町営業倉庫(5号倉庫 825平米)新築工事竣工。

 昭和44年7月1日、札幌営業所を開設し、清田倉庫の営業を開始。

 昭和45年1月31日、異常低気圧接近により、春採~知人間6.3km付近(千代ノ浦海岸)の線路道床が、高波により延長150mに渡って決壊・流出、開業以来の大被害を受けたが、全社員による懸命な復旧作業の結果、2月5日20時に開通した。

 昭和45年2月、雄別炭礦全山(雄別・尺別・上茶路)を閉山。

 これにより、1万5000人がヤマの生活に終止符を打った(釧路新聞社『釧路港開港百年記念誌』より)という、当地方にとってはまさに大事件であった。

 昭和45年3月、大阪で日本万国博覧会開催。

 当時ぼくは京都市民のはしくれだったが、ラジオから繰り返し Welcome to EXPO '70, Osaka, Japan. という英語が流れてきたことを覚えている。6,400万人以上もの入場者が押し寄せた大イベントであった。

 しかし官民挙げての大宣伝にもかかわらず、見かけ倒しの陳腐な内容であったことは否定できないと思う。ぼくは友人が東京からスポンサーといっしょに(笑)見物に来たので、タダにつられて万博会場へ行ったのである。

 ともあれ大阪万博といい、70年安保といい、時の経過を測る目安になる出来事ではあった。あれから40年以上が夢のように過ぎ去ったわけである。

 昭和45年4月15日、雄別鉄道48年に渡る営業を終える。

 小学校の夏休みに雄鉄に乗って雄別まで行ったり、なにかのときに鉄橋を歩いて渡ったりした思い出がある。

 炭礦が閉山すれば、大仕掛けな手品のように町がそっくりひとつ消滅し、鉄道も姿を消してしまう。わが臨港鉄道にはぜひとも末永くつづいてほしいと願うのみである。

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 昭和45年9月17日、新造電気式ディーゼル機関車DE601(日本車輌製 重量55トン 定格出力1,050馬力×1)を導入、10月7日使用開始。

 この特集第2回に掲載した父の写真に写っているのが DE601である。トリミングして再掲載した。この機関車も現在みかけないから廃車になったのだろう。

 昭和45年11月21日、永住町踏切第1種自動遮断機設置工事竣工。

 以上見たとおり、この時期をひとことでまとめると、自動化・効率化の時代といっていいだろう。『臨鉄60年の軌跡』もいよいよ残り頁が少なくなってきた。

(つづく)

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December 17, 2011

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (10)

 この連載も回を重ねて第10回となった。ぼくの個人的メモを兼ねているため、かなり細かい出来事まで記載している。しかし臨鉄オタクを養成するつもりはないので、興味のない部分は読み飛ばしていただければと思う。

 今回は昭和30年代全体を扱ったため、思わぬ長編になってしまった。写真だけでもごらんいただければ幸いである。

 戦後の復興も一段落して、運送の主力が蒸気機関車から次第にディーゼル機関車へと交替し、充実期に入ったことがわかる。昭和38年に旅客輸送が廃止されたことも時代の流れを感じさせる。

ディーゼル機関車時代へ

 昭和30年11月20日、埠頭岐線より分岐するスタンダード石油専用側線新設。

 昭和30年11月20日、札幌陸運局長に(客車・貨車の同時編成による)混合列車廃止認可を申請、11月30日に認可され、12月1日に廃止を実施した。

 昭和30年11月29日、本社附属倉庫を解体移築した埠頭6号上屋(463平米)が完成。

 昭和31年8月22日、臨港駅本屋の新築工事竣工。

 昭和31年10月30日、定時株主総会にて、沼尻~知人間護岸改良工事、埠頭構内舗装、排水溝新設、本社社屋・社宅改築等の資金に充当するため増資を議決、資本金8,000万円(総株数160万株)となった。

 昭和31年11月10日、春採~沼尻間線路一部変更工事竣工、同区間が123m短縮された。

 昭和32年10月知人町に初のコンクリートブロック2階建社宅1棟5戸が完成。


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   2008年3月29日撮影 補修工事中の南埠頭日通倉庫

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   2011年11月13日撮影 現在の日通倉庫

 昭和33年6月10日、老朽化のため埠頭1号上屋解体。解体上屋跡敷地は日本通運に貸付、同社倉庫を建設。

 ごらんのとおり、相当古い倉庫なので、いつごろできたのだろうと疑問に思っていた。もし昭和33年ころ建設したものだとすれば半世紀以上経過していることになるが、この外観からしてその可能性大である。

 昭和33年6月、皇太子殿下が釧路市に行啓。

 東栄小学校前の道路沿いに生徒が並び、車列を歓迎したような記憶があるのは、たぶんこのときのことだろう。思えばぼくも日通倉庫なみに年を取ったものである。

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   2005年1月14日撮影 春採駅構内のD101

 昭和33年11月、新造ディーゼル機関車1両(D101 日本車輌製。重量54トン、定格出力400馬力×2)を導入、12月1日より使用開始。これにより蒸気機関車にくらべ、経費は半減し、輸送力は倍増した。

 2005年1月に許可をいただいて撮影した写真の出番がやってきた。現在は使われていないようだが、この栄光の第一号ディーゼル機関車は、いまも春採駅構内で見ることができる。

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   2005年1月14日撮影 連接石炭車セキ

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   同上 密着式自動連接器

 昭和33年11月、国鉄払い下げの石炭車セキ10両を使用開始、以後セキ号車が増備されていった。

 このときは連接部の特徴など知らなかったけれど、貨車を撮るようになれば鉄ちゃん見習いの資格はいただけるだろうか。

 なおこの年7月中央埠頭建設工事がはじまった。同埠頭の完成は昭和43年だが、昭和36年には西側の1号バースが供用開始された。

 昭和34年9月30日、臨港駅構内釧路石炭販売会社貯炭場用側線(延長115m売炭線)新設工事竣工(これは後年廃止・撤去された)

 昭和34年10月、太平洋炭礦第5本坑道春採~興津貫通。

 昭和35年1月10日、東釧路~春採間2.854km選炭場踏切道第2種踏切改良工事竣工(踏切警手配置)

 昭和35年1月25日、取扱貨物増加にともない、入換作業時間の短縮をはかるため、春採駅西部構内に入換線(延長122m)を新設。

 昭和35年4月1日、沼尻駅側線を貨物取扱皆無のため撤去し、停留場に変更認可を申請、5月4日に認可され、6月1日実施。

 昭和35年5月、チリ地震津波により道東地方は大被害を受ける。

 昭和35年6月、南新埠頭の埋立工事が開始される。

 昭和35年12月、国鉄より石炭車セキ11両払い下げ。

 昭和36年5月24日、東釧路~春採間1.273kmに、緑ヶ岡停留場を、東釧路~城山間0.890kmに材木町停留場を開設し、旅客取扱いを開始した。

 昭和36年7月30日、埠頭3号上屋を移築し、入舟町1号上屋とした。上屋跡地は小野田セメントサイロ敷地とした。

 昭和36年11月、釧路空港開港。

 昭和36年12月、国鉄釧路駅の新駅舎が完成。 


 現釧路駅。いわゆる民衆駅である。

 昭和36年8月10日、東釧路~臨港間にタブレット閉塞器を設置し、票券閉塞式からタブレット閉塞式に変更実施した。

 閉塞とは衝突防止のため、ひとつの閉塞区間に同時にふたつ以上の列車を入れぬように安全を確保するシステムのこと。詳細については「閉塞」を参照のこと。

 昭和37年8月、太平洋炭礦春採・興津両坑統合なる。

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 昭和37年9月、新造ディーゼル機関車1両(D201 日本車輌製。重量50トン、定格出力300馬力×2)を導入、10月9日より使用開始。

 残念ながらD201の写真は撮れなかったので、『臨鉄60年の軌跡』から拝借した。同書の年表(昭和58年まで記載)には廃車したという記事はみあたらないが、昭和41年11月に導入したD501は昭和54年2月に廃車されたと記録されているので、時期は不明だがD201も廃車になったのかもしれない。機会があったら確認したい。

 昭和37年11月、倉庫業許可を申請する。

 昭和38年4月1日、希望退職募集。応募者数19名。


 詳細は記録されていないが、この年10月に旅客取扱いを廃止したことと関係があるのではないか(もし見当ちがいならお詫びしたい)。


 昭和38年4月、石炭車セキ2両国鉄より払い下げ。

 昭和38年7月1日、(国鉄とは別に臨港鉄道の)東釧路駅開設、釧路臨港鉄道所属線における列車運転取扱業務を開始。

 昭和38年10月31日、旅客・手荷物・小荷物の運輸営業を廃止。これにより大正15年2月から37年に渡って運行された旅客列車が姿を消した。


 これも詳細は説明されていないが、背景にはもちろん旅客の減少があったにちがいない。これまた宿題にしておこう。

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   千代田汽船「雄鵬丸」
   『船体写真集』(昭和42年 日本郵船株式会社)より

 昭和38年、釧路南埠頭に初めて石炭専用船が接岸。

 船名やトン数が記載されていないのではっきりしたことはいえないけれど、たぶん写真のようにデリックなどの荷役装置を持たない専用船であろう。

 上の写真の雄鵬丸と同型(3,300~3,500総トン)と思われる千代田内航汽船運航の菱陽丸(昭和40年竣工)と八千代丸(昭和39年竣工)は昭和50年代釧路にたびたび入港して石炭を積んでいた。

 ぼくが南埠頭の石炭ローダー事務所におじゃましたのはそのころである。当時事務所では一年中ルンペンストーブが焚かれていたことを思い出す。本船では手仕舞のときに酒がふるまわれたこともなつかしい思い出である。いまよりも万事につけて余裕のある時代であった。

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   2011年12月12日撮影 現在の臨鉄倉庫群(入舟岸壁)

 昭和39年2月5日、倉庫業認可、入舟町1号上屋を営業倉庫に改装し、3月5日開業。

 未確認だが、写真の倉庫には港町倉庫が含まれているのかもしれない。

 昭和39年2月、蒸気機関車3両(7号、10号、11号)廃車。石炭車セラ9両および客車2両廃車。


 蒸気機関車は翌昭和40年にも3両廃車となっている。

 昭和39年6月、石炭車セキ2両を国鉄より払い下げ。

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   2011年8月29日撮影 南新埠頭

 昭和39年6月、南新埠頭埋立岸壁工事竣工(56,200平米。太平洋興発所有)

 南新埠頭を撮ろうなどというのはよほどの変わり者にちがいなく、ぼくもめったにレンズを向けたことがない。適当な写真がなかったので、すでに当ブログに掲載ずみのものを再利用した。

 なお写真に見える川洋丸はときどき南埠頭で石炭を積んでいる。上のほうで触れた石炭専用船と同型。


 昭和39年7月、ディーゼルカー(キハ1001号)を南部鉄道へ譲渡。

 昭和39年8月10日、釧路臨港埠頭運輸株式会社設立(資本金500万円。全額臨鉄出資)。

 昭和39年8月31日、機関庫改築工事竣工。


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   2005年1月14日撮影 春採駅構内の軌道モーターカー

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   2000年7月23日撮影  保線作業(米町付近)

 昭和39年9月、保線用モーターカー導入。

 当時のモーターカーがどんなものかはわからないけれど、春採駅構内でみかけた軌道モーターカーと、実際の保線作業に使われていた車両の写真を掲載しておく。

 せっかく春採駅で写真を撮らせていただいたのに、当時は予備知識がゼロだったから、いろいろお聞きすることができなかった。準備なしに現場に行ってもまともな取材はできないということである。

 昭和39年10月10日、東京オリンピック開会式。

 昭和39年10月18日、知人駅信号保安装置を第1種電気継電連動装置に変更する工事が竣工、10月19日使用開始。

 昭和39年11月20日、埠頭岐線より分岐する北日本木材市場専用側線新設工事竣工(総延長535m)。

 昭和39年11月31日、春採駅第1種電気継電連動装置新設工事竣工、12月1日使用開始。


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   2005年1月14日撮影 春採駅構内のD401

 昭和39年12月4日、11月に導入した新造ディーゼル機関車2両(日本車輌製 D301およびD401)を使用開始。

 D301は写真を撮れなかったので(たぶん廃車?)、D201同様『臨鉄60年の軌跡』から写真を転載させていただいた。

 こうして蒸気機関車は昭和30年代に主役をしりぞき、ディーゼル機関車の時代が到来したのである。

(つづく)

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December 10, 2011

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (9)

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   2011年12月3日撮影 春採駅踏切(駅舎はこの左手)

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   2011年12月3日撮影 踏切の右に春採駅が見える

 南側の丘から踏切方面を撮影したもの。南北を丘に挟まれた地形であることがわかる。なお踏切左手に見える機関車は、青が D801、オレンジ色が D701型である。

 今回の記事は昭和26年から29年まで。


戦後の復興
(2)

 昭和26年3月28日、運輸省の地方鉄道運転規則にもとづき、釧路臨港鉄道運転取扱心得を制定。

 昭和26年6月、太平洋炭礦全面海底下採炭へ移行。

 昭和26年8月より社員の誕生祝が催され、社長の祝言と菓子折が贈られた。


 一見地味なニュースのようだが、実は大きな意味があるように思う。戦後の混乱期が一段落し、人々の気持に少し余裕ができたことをうかがわせるからだ。

 昭和26年9月8日、日米安保条約調印。

 この条約が締結されたのは昭和30年1月である。それに反対して、いわゆる60年安保闘争(立場によっては「闘争」といわず「騒動」というらしい)が展開されたことはご存じのとおり。

 昭和26年9月22日、釧路港重要港湾に指定される。

 ぼくははじめて知ったのだが、戦後釧路港は外国貿易不振を理由に、一時不開港に格下げになる危機を迎えたらしい。不開港になれば検疫や税関の入港手続きができなくなるから、これは大ピンチである。その危機を回避して重要港湾に指定されたことの意義は大きい。

 昭和26年9月、国鉄より客車1両(ナハ1号 定員110名)を譲り受けて使用を開始(この客車は昭和28年11月17日、ディーゼル動車キハ1001号に改装された)。

 昭和26年10月、埠頭3号上屋(826平米)1棟が完成。

 昭和27年1月28日、国鉄払い下げの蒸気機関車1両(10号機関車と同型)を11号機関車として導入、2月より使用開始。

 昭和27年3月4日午前10時過ぎ、十勝沖地震(M8.3)が発生、東釧路~春採間2.5km付近および春採~知人間5.4km付近の線路・道床が被害を受けた。


 当地方は地震多発地帯だが、この地震は津波をともない、

 死者8人、負傷者36人を出し、津波に襲われる恐怖感から、幣舞橋を通り高台へ避難する3万人もの市民で大混乱になった。施設損害では、特に釧路川市設魚揚場岸壁、北埠頭の港湾施設を中心とする公共施設の打撃が甚大だった。-『釧路港開港百年記念誌』(平成12年 釧路新聞社)

 特に甚大な被害を受けたのが、昭和25年12月に完成したばかりの北埠頭であった。また、

 太平洋炭砿ではズリ山が崩れ炭住二戸が一気に押しつぶされた。学校などの集合煙筒も落下した。火災が発生し、刑務所の大塀も大半くずれた。-『目で見る釧路の歴史』(平成4年 釧路市)


 なお『目で見る釧路の歴史』によれば、地震による死者は16人、負傷者30人で、『釧路港開港百年記念誌』の記述と大きく食いちがっている。20世紀の事件にしてかくのごとし。本気で歴史の勉強をするつもりなら、多くの資料を参照して確認せねばならぬことがこれからもわかる。

 余計な話だけれど、邪馬台国などはまともな文献が『魏志倭人伝』しかないのだから、画期的な考古学的発見でもないかぎり、あと百年かかっても決着はつくまいと思う。


 昭和27年9月30日、東釧路~城山間1.635kmより分岐する加藤ベニヤ工場専用側線(延長172m)新設。

 昭和27年10月25日、知人~臨港間8.260kmより分岐する東栄工業工場専用側線(延長67m)新設。


 これらの側線はのちに撤去され、現在は存在しない。

 昭和27年12月1日、知人駅本屋新築工事竣工。

 昭和28年5月1日、東釧路~春採間2.5kmに永住町停留所を新設して旅客取扱いを開始。


 いま永住町という町名はないが、地図には春採7丁目に「永住住宅」が、武佐1丁目にはくしろバスの「永住」バス停留所が記載されている。

 昭和28年5月18日、定時株主総会において、機関車増強・埠頭上屋新築等の資金に充当するため、1,000万円の増資を議決、資本金2,000万円(総株数40万株)となる。

 昭和28年6月、国鉄より無蓋貨車トム5両払い下げ。

 昭和28年11月27日、ディーゼルカー(キハ1001号)運転開始。これは昭和26年9月に国鉄より譲り受けた客車1両(ナハ1号 定員110名)に120馬力エンジンとトルクコンバーターを取り付けて改造したものである。

 昭和28年11月30日、埠頭新5号上屋(331平米)が完成。小野田セメントサイロ・包装工場敷地にするため、旧5号上屋は撤去された。

 昭和29年3月24日、沼尻踏切道保安強化のため踏切警手を配置。

 これは記憶にはないけれど、年表によると、沼尻の踏切遮断機が電動式に変更されたのは昭和41年5月11日だから、実際はぼくも手動遮断機を目にしていた可能性が高い。たぶん忘れてしまったのだろう。

 昭和29年4月30日、定時株主総会において、無蓋貨車増備・ディーゼル動車改造・社宅買取等の資金に充当するため、2,000万円の増資を議決、資本金4,000万円(総株数80万株)となる。

 昭和29年8月16日、天皇・皇后釧路市に行幸。

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      2008年1月20撮影 竹老園の蘭切りソバ

 昭和天皇皇后両陛下が蘭切りそばを召し上がり、天皇がお代わりされたというのはこのときである。ただし竹老園のサイトによれば、お食事の場所は六園荘であった。

 だからどうした、といわれればそれまでだが、国外はともかく国内に平和が到来したことを実感させるニュースではあると思う。

 さてこうして年表をざっと追ってみるだけでも、戦災にあった埠頭の再建や車両の増強など、戦後の復興がほぼ完了し、昭和30年を迎えたことがわかる。

 次回からは昭和30年代に入り、2005年1月に春採駅で撮影した写真にもいよいよ出番がやってくる。

(つづく)

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December 05, 2011

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (8)

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   2002年6月2日撮影 弥生中学校下 前方左中村水産跡

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   2007年5月3日撮影 沼尻川鉄橋通過中

 今回は昭和21年から25年までの戦後復興期を扱う。復興期は一応昭和30年頃までと考えるべきだし、『臨鉄60年の軌跡』でもその頃を一区切りとしている。しかしやはり昭和25年はひとつの節目だろうと思うのである。

戦後の復興

 昭和21年1月10日、前年にひきつづき旅客運賃改定を申請、3月1日実施された(10銭~40銭から20銭~1円10銭へ)。

 昭和19年8月以来の出炭停止に加え、空襲により南埠頭上屋5棟が焼失したため貨物輸送量が激減し、経営は不振をきわめていた。さらに戦後の猛烈なインフレに見舞われたのである。

 昭和21年11月、太平洋炭礦別保坑が再開される。

 これは昭和20年9月の春採坑再開に次ぐものである。

 昭和22年1月23日、旅客運賃変更認可を申請。1月31日認可、3月1日実施(20銭~1円10銭から50銭~1円50銭)。

 昭和22年3月、石炭運賃を除く貨物運賃を倍額値上げ、さらに同年7月8日には大貨物営業粁程を20割増から70割増へ変更。

 昭和22年4月25日、旅客運賃変更認可を申請。7月5日認可、7月8日実施(50銭~1円50銭から1円~6円50銭)。


 このあたり、インフレの進行のすさまじさがよくわかるので、旅客運賃改定については、煩をいとわず記載する。

 昭和22年8月、渡島海岸鉄道より客車一両(キハ101号 定員54名 機関を取り外し、蒸気機関車牽引)を譲り受け使用開始。

 昭和22年8月、太平洋炭礦興津坑の開削に着手。

 昭和22年10月、太平洋炭礦桂恋坑を開坑(昭和32年閉鎖)。

 
太平洋炭礦もまた着実に復興の道を歩んでいた。

 昭和23年1月30日、埠頭1号上屋(1,653平米)が復旧・完成。

 昭和22年~24年の3年間、東京の食料危機に対処するため、馬鈴薯(総計53,994トン)および木炭(総計48,436トン)を貨車輸送により南埠頭に集積し、海上輸送した。

 これは新知識。北海道の底力を感じるエピソードである。

 昭和23年2月16日、臨時株主総会を開催し、復旧上屋建設にともなう建設費借入金償還資金に充当するため、資本金を500万円(総株数10万株)に増加。

 昭和23年5月7日、旅客運賃変更認可実施(1円~6円50銭から3円~18円)。

 昭和24年5月5日、旅客運賃変更認可実施(3円~18円から5円~15円)。

 昭和24年6月16日、埠頭上屋5号上屋(608平米)新築工事竣工。つづいて6月25日には本社附属倉庫(463平米)新築工事竣工。

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2011年11月26日撮影 紫雲台から見た興津のズリ山

 昭和24年8月、太平洋炭礦興津坑を開坑、出炭を開始した。

 昭和24年9月28日、東釧路~城山間1.880kmより分岐する長谷川木工工場専用側線(延長72m)新設。


 急ピッチで復興の進む様子がわかる。


 昭和24年11月、太平洋炭礦別保坑を閉鎖、春採海底炭採掘に集約。

 昭和24年11月、別保~東釧路~春採間に、太平洋炭礦春採坑に通勤する礦員の専用通勤列車(国鉄客車2両編成)の運転を開始。


 別保坑の閉鎖にともない、春採への通勤専用列車を開始したのである。このあたりの歴史については、ぼくもそうだったが、もはや知らない市民のほうが多いのではないだろうか。

 昭和25年1月1日、営業粁程70割増を廃止し、実粁程を実施、4月1日には貨物運賃併算制に変更。

 昭和25年4月1日、旅客運賃変更認可実施(5円~15円から10円~20円)。

 昭和25年4月、船舶の民営還元実施。


 戦後日本の船舶はGHQの管理下に置かれ、船舶運営会によって配船されていたが、

 24年9月1日800総トン未満の小型船舶の民営還元がなされ(中略)、さらに25年4月1日を期して帰還輸送その他特殊用途の船舶を除き全面的な民営還元となった。対象船舶は601隻7万5千総トンである。-『三ツ輪運輸五十五年史』 p. 74

 昭和25年には、4月には日本郵船の貨客船雲仙丸(釧路~芝浦定期)が初入港し、5月には戦後初の外航船が入港するなどの動きがあった。


 昭和25年6月25日、朝鮮戦争勃発。


 この不幸な戦争によって特需が生じ、昭和25年の太平洋炭礦の出炭量(667,500トン)は、戦前の最高を記録した昭和16年のそれ(669,316トン)にほぼ回復したのであった(『釧路叢書 春採湖』による)。

 昭和25年8月25日、臨時株主総会を開催、機関車・客車増備、社宅新築等の資金に充当するため、資本金を1,000万円(総株数20万株)とする。

 昭和25年12月、北埠頭が完成。

 昭和25年11月20日、国鉄払い下げの蒸気機関車(英国製2120.0C 1)1両を10号機関車として導入、12月より使用開始。


 以上ざっと見ただけでも、昭和25年頃が戦後史のひとつの節目であったことはまちがいないと思う。朝鮮戦争はもちろんだが、復興期の釧路港湾業界の動きなど、酔っ払いの手に余ることはすでに申し上げたとおりだから、ここでは深入りしない。

(つづく)

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December 02, 2011

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (7)

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 これは父の遺した写真で、ネガアルバムには「1955(昭和30)年3月31日 釧路港 南」とメモされている。

 当時釧路港の商船岸壁は南埠頭と北埠頭だけであった。景色から見て北埠頭ではありえないし、住人が南北をまちがえるはずはない。写真の左手に倉庫が見えるところからも南埠頭にちがいない。

 だとすれば、背景に写っている一見桟橋状のものはなんだろうか? 南防波堤に関係するなんらかの工事が行われていたのかもしれない。興味があるので宿題にしておこう。

 なお位置関係から考えて、写真の會福丸は石炭ではなく一般雑貨を荷役中ではないかと思う。

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   2007年8月25日撮影 南防波堤から見た南埠頭

 さて今回は戦時中から太平洋戦争終結までの時期を扱う。


戦時下の臨港鉄道

 昭和17年4月、太平洋炭礦知人貯炭場2号高架桟橋(コンクリート製 延長132m)完成。

 現在高架桟橋がふたつあることは、第2回に掲載した写真をごらんになればわかるとおりである。

 ここでは太平洋戦争の戦史をあらためて勉強するつもりも余裕もないが、昭和17年6月、ミッドウェイ海戦に敗れたことにより大勢は決した。かりにこの海戦に勝利したところで、もともと勝ち目のある戦争ではなかった。

 昭和17年10月20日、真砂町停留場廃止。

 昭和18年3月、蒸気機関車(8号)を新造・導入。

 昭和18年7月、時刻を24時間制と定める。

 鉄道の世界は最初から24時間制だと思いこんでいたから、これは新知識である。

 戦局の進展により船腹が不足し、釧路港では約5割減となり、石炭の積み出しが激減した。

 昭和19年8月11日、閣議決定による転換命令により、太平洋炭礦春採坑は保坑、別保坑は休坑となる。そのため出炭停止となり、鉄道経営上打撃を受けることとなった。

 増収策として昭和18年7月には10割増、昭和19 年10月には20割増の大貨物営業粁程割増認可を申請したが、認可されたのは戦後の昭和20年12月8日、実施されたのは昭和21年4月1日であった。

 また昭和19年12月15日より、従来無料取扱いであった埠頭側線・陸海軍専用線発着の貨物に対し、側線使用料(1トンにつき20銭)を設定実施、昭和20年4月1日には旅客運賃が5銭~30銭から10銭~40銭に改定された。

 ようするに戦局は当初の強気で楽観的な見通しどおりには進展せず、次第に敗色濃厚になっていったことが、上の記述からもうかがえる。

 脇道に入ることは極力避けるつもりだったが、せっかくの機会だから、ここで日本海運界の状況について概観しておこう。


太平洋戦争下の海運界


 この節のうち茶色で示した部分は、すべて『日本郵船株式会社百年史』(昭和63年)の要約であることを最初にお断りしておく。

 開戦時の100総トン以上の鋼船は、大連・中国など外地の置籍船を含めて、総計で2,578隻、650万総トンであり、世界第3位を誇っていた。

 そのうち陸海軍に徴用された船舶を除く1528隻、243.6万総トンは、昭和17年4月以降、日船舶運営会の管轄のもとに、ほぼ完全な国家管理に移行した。そのうち官庁用船と沿岸航路定期船などを差し引くと、物資動員計画対象船は584隻、177.8万総トンに過ぎず、船腹はおおいに不足したのである。


 しかも作戦が一段落すれば陸海軍から約110万総トン返還されるはずが、戦局の悪化とともに、返還どころか41万総トンが追徴されることとなった。


 当初の見通しが楽観的であったことはこれからもわかる。

 戦時中の100総トン以上の鋼船船腹の推移は下表のとおり。カッコ内の数字は物動対象船(不稼働船を含む)を示す。

昭和16年12月 2,529隻 633.7万総トン
(  584隻 177.8万総トン)
昭和17年10月 2,632隻 615.8万総トン
(1,064隻 268.9万総トン)
昭和18年10月 2,749隻 554.7万総トン
( 809隻 202.7万総トン)
昭和19年10月 2,638隻 385.3万総トン
( 943隻 188.0万総トン)
昭和20年  8月 2,018隻 220.7万総トン
( 653隻 131.5万総トン)

 もちろん戦時中にも船舶の建造は行われた。第1次~第3次戦標船(戦時標準型船)合計1,036隻、263.6万総トンがそれである。しかし戦標船の質の低下は覆うべくもなく、材料の払底により、政府によって木造船の増産計画が立てられるほどであった。

 この場で先の戦争についてあれこれ論ずるのは適当ではないと思う。しかし木造船を建造せねばならないような惨憺たる状況下で強引に戦争を継続しているうちに、終戦の時期を誤ったことは否定できないだろう。

 
一方戦争海難によって失われた船腹は以下のとおりである。

昭和16年    9隻   4.8万総トン
昭和17年  204隻  88.4万総トン
昭和18年   426隻 166.8万総トン
昭和19年 1,009隻 369.4万総トン
昭和20年  746隻 172.2万総トン


 船舶とともに多くの船員が犠牲になったことはいうまでもない。

終戦へ

 こうしてずるずると無理な戦争をつづけているうちに、南埠頭は壊滅的な損害を受ける。

 昭和20年7月14日、米軍の空襲により南埠頭は甚大な損害をこうむり、石炭ローダーは無事であったが、上屋は5棟が貨物とともに焼失、わずかに1棟のみ焼失を免れるという惨状であった。

 この空襲について『三ツ輪運輸五十五年史』から引用すると、

 20年7月の釧路空襲は、14日に5回攻撃機延93機、15日に3回攻撃機延12機が来襲した。14日だけで釧路市内は、北大通東部の旭国民学校から幣舞橋が一面の焼野ヶ原となって火焔が天をおおった。-p. 59

 そして、

 
昭和20年8月15日、終戦を迎える。

 昭和20年9月、太平洋炭礦春採坑再開。この年の貨物総輸送量は386,000トンに激減していた。


(つづく)

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November 28, 2011

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (6)

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   2007年5月24日撮影 知人の浜手前にて

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   2005年9月19日 知人駅手前にて

 臨港鉄道の線路沿いはぼくのもっとも気に入っている散歩コースである。何度歩いたか数えたこともないが、カメラを手にしてからは歩くたびに必ずシャッターを切っている。たまに列車に出くわすとうれしくなることはいうまでもない。

 さて今回は昭和10年から太平洋戦争開戦までの時期を扱うことにしよう。

太平洋戦争開戦まで

 昭和10年3月5日、沼尻~知人間6.136kmより分岐する中村水産工場専用側線(延長60m)敷設、水産物加工品等の国鉄線連絡輸送を開始。

 これを読んだだけでは、素人には中村水産工場の位置はわかりにくい。そこで『臨鉄60年の軌跡』所収の昭和17年5月改正ダイヤを見ると、起点(東釧路駅)からの累計粁程(粁=キロメートル)は、春採3.3、観月園4.6、沼尻5.6、米町6.7、知人7.4となっている。

 もし起点から 6.135km地点だとすれば、沼尻駅と米町駅との間にあたる(すでに掲載した昭和7年当時の地図ご参照)。当時の米町駅の位置は大体推測できるので、最近の地図上でそこから約0.5km沼尻方向にコンパスを当てると、

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   2011年9月4日撮影 中村水産跡の地点

これまで当ブログで何度かご紹介した、中村水産の産業遺跡の位置にピタリ符合する。写真下に見える「3.0」の数字が、現在の春採駅を起点とするものだとすれば、3.3+3.0=6.3だから、当時の側線はこのほんの少し手前にあったと見ていいのではないだろうか。

 なんだか胸がワクワクするけれど(笑)、もしこの推測に誤りがあればご指摘いただきたいと思う。

 昭和10年9月、客車にガソリン動車1両(日本車輌製。キハ1 定員30名 出力26.8kw)。

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   城山駅とガソリンカー(昭和12年)
   『臨鉄60年の軌跡』 p. 55 より

 牽引されるのではなく単独で走る、たいへんコンパクトな車両である。やはり写真がなくては想像困難なので、勝手ながら写真を転載させていただいた。

 この客車がいま走っていたら大人気だと思う。もちろん生活路線としての再生は望めないから、採算は取れないだろうが。

 昭和11年10月、南埠頭5号上屋(463m2)が、同年11月には6号上屋(496m2)を新築。これにより上屋合計6棟(5,521m2)となる。

 まだ石炭ローダーは完成していないが、これで岸壁上の施設はほぼ完成に近づいたといえるだろう。

 昭和12年1月10日、昭和10年に着手し、昭和11年12月12日に開通した東釧路~城山間の運輸営業を開始。

 昭和12年7月、日華事変(日中戦争)勃発。石炭の需要急増により、8月に同形式蒸気機関車(6号)1両を新造・導入。


 いわゆる盧溝橋事件である。これ以後次第に戦時色を帯びた記載が増えてくる。

 昭和13年12月、春採駅構内拡張工事に着手。

 昭和14年7月知人貯炭場1号高架桟橋(コンクリート製 延長159m)完成。太平洋炭礦石炭積込ローダー完成、7月26日初の積込作業開始。

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   2002年1月12日撮影 積荷中の石炭ローダー

 いまの石炭ローダーが何代目なのかはわからないが、ぼくが入社当時南埠頭の石炭船に通っていたころのローダーは先代。ローダー2基で、5,500トンの石炭をたしか3時間10分~15分ほどで積み終わるという優秀な機械であった。

 昭和15年8月23日、臨港~入舟町間(0.816km)が開通し、翌日より営業開始。これにより、城山~東釧路~春採~知人~臨港~入舟町の釧路臨港鉄道線(11.440km)が全通した。

 これで釧路臨港鉄道は一応の完成を見たわけだが、現在残っているのはわずか春採~知人間のみだから、時代の流れとはいえさびしいものがある。せめて現在の路線は長くつづいてほしいものだと願わずにはいられない。

 昭和15年9月20日、臨港駅構内に陸軍専用の側線(延長354m)敷設。

 昭和15年10月24日、9,268kmの地点に入舟町駅開設営業開始。

 昭和15年11月25日、春採駅構内拡張工事完了。選炭場専用側線延長、車両留置線新設、機関庫移転新築、春採駅本屋改築。

 昭和15年、太平洋炭礦の年間出炭量100万トンを突破。

 昭和16年8月、蒸気機関車(7号)1両を新造・導入、9月20日より使用開始。

 昭和16年12月、海軍の要求により臨港駅構外側線(臨港~入舟町間延長300m)敷設。

 昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発。


 昭和15年度には出炭量100万トンを突破し、
昭和16年度の貨物総輸送量は開業以来最高の1,289,000トンに達したというのは、一種の戦争景気なのだろう。

 昭和16年の港湾運送事業統制令にもとづき、(昭和18年には)雑貨荷役のために釧路港運株式会社が、石炭荷役のために釧路石炭港運株式会社が設立される。

 いわゆる戦時統制によって港湾事業者は一港一社に統一されたのだが、釧路港の場合は石炭の扱い量が多かったため、室蘭・小樽同様「石炭雑貨の二本建」として、雑貨部門では釧路港運が、石炭部門では釧路石炭港運が設立されたのである(釧路新聞社刊 『釧路港開港百年誌』による)。

 なお太平洋戦争開戦により、港湾工事どころではなくなったため、


 昭和13年、北埠頭築設工事着手されるも戦争のため中止となる
(供用開始は昭和24年3月14日)。

という事実も記憶にとどめておきたい。

 戦時下の釧路港湾業界といい、北埠頭の歴史といい、たいへん興味深いテーマなのだが、その方面にまで手を出すと収拾がつかなくなってしまう。たぶんそれぞれ本が一冊ずつできあがるのではないだろうか。酔っ払いは分をわきまえて(笑)、あとは大学の先生にお任せしたい。

(つづく)

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November 25, 2011

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (5)

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   2007年10月27日撮影 春採駅近くの選炭工場

 今回はいったん明治の昔に戻り、石炭の春採湖上輸送について、少し詳しく見ることにしよう。資料として用いたのは『釧路叢書 第一五巻 春採湖』(昭和49年 釧路市発行)である。

石炭の湖上輸送

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   『釧路叢書 春採湖』より

 春採(春鳥)炭山の開発は、もともと標茶の硫黄精錬工場および硫黄輸送に用いられた蒸気機関車の燃料需要にかかわるものであった。

 春採炭山は当初露頭炭層から採炭されていたが、明治20年代以降昭和20年代まで11の炭鉱が開坑された。

 そのうち春採湖岸に坑口があったのは、上図に見える安田炭砿(明治20年~大正6年)の大安坑(明治21年~42年)と大成坑(明治22年~大正1年)の2坑、そして木村組釧路
炭砿(大正6~9年)時代に採炭が進められた小成(明治42年~大正9年)、新盛(大正6~9年)の2坑であった。

 大正7年には木村組が第一斜坑を開いて地下深部からの採炭となり、戦後はいわゆる海底炭へと変化していったわけである。しかしその間選炭工場はいつも湖の近くにあった。

 さて石炭の輸送上障害となったのが春採湖の存在である。当初はカマスに詰めた石炭をモシリヤ(現在の城山)まで陸上駄馬輸送していたというから、恐ろしく非能率な話である。

 すでに触れた川船による沼尻までの湖上輸送がはじまったのは明治23年である。湖岸にあった選炭場で取り除かれた粗悪炭や粉炭などは、そのままドンドン沼地へ捨てたわけで、現在からすればひどく乱暴な話だが、時代背景を考えればしかたのないところだろう。

 今回の記事のソースである『釧路叢書 春採湖』によれば、冬期間はカマスに詰めた石炭を馬そりで運んだとあるが、船にはどのような荷姿で積まれたのかは書かれていない。しかしたぶんバラ荷ではなく馬そり同様カマス詰めだったのだろう。

 「炭舟」には帆があり、風のないときは櫓を漕いだという。真冬の馬そり輸送は困難をきわめたらしい。雪が積もれば吹きだまりができるからである。

 また下の第2図には春採湖南岸の丘の上に安田堅坑(明治38年~44年)が見えるけれど、ここからはトロッコで沼尻まで運んで馬鉄に接続した(※注1)。

 初冬と春先は湖上輸送ができないから春採からの出炭ができず、いたずらに貯炭量が増えるばかりであった。これは当然経営不安定をもたらすから、安田が大正3年に閉山を決意するに至った大きな理由であったにちがいない。

馬車軌道全通

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   『釧路叢書 春採湖』より

 事業を引き継いだ木村は、出炭不可能な期間を解消すべく、沼尻まで馬車軌道を敷設したわけである。すでに述べたとおり、大正7年には馬車軌道が全線複線化されたのだが、これにより月間6,000トンの輸送が可能になったという。

 春採から運ばれた石炭が千代ノ浦で中継ぎされて港頭の貯炭場に到着するまでの所要時間は約2時間、輸送は昼夜兼行で行われた。人馬一体となっての重労働には想像を絶するものがあったにちがいない。

 その後大正14年2月に春採~知人間の釧路臨港鉄道が開通したことはすでに述べた。この間の年間出炭量を見ると、木村組時代の大正7年には24,644トン、太平洋
炭砿創立の大正9年には93,930トン、大正14年には137,149トンと増加している(※注2)。

(※1) 上図では安田堅坑から沼尻までのトロ線を大正7年以降のものとしているが、同坑の採炭期間(明治38~44年)と矛盾する。誤記ではないだろうか。またこの堅坑から出炭された石炭の選炭がどこで行われたのかは、『釧路叢書 春採湖』には記載されていない。

(※2) 本記事はすべて『釧路叢書 春採湖』によるが、同書によれば、昭和15年の出炭量は633,622トン。しかし『臨鉄60年の軌跡』の年表では昭和15年には「太平洋炭礦の年間出炭量が100万トンを突破」と記載されている。出炭量の基準がちがうのだろうか? 第一次資料にあたる必要があるかもしれない。

【追記】

 気楽にはじめたつもりが、だんだんとんでもないことになってきた。だいたいマジメに歴史に取り組もうとすれば、資料が山のように必要である。酔っ払いにはちと荷が重すぎるようだ。

 また石炭と港とのかかわりについて考えれば、港湾事業者や港湾工事などの歴史も無視できないし、南埠頭について触れる以上、雄別の石炭を積み出した北埠頭はどうなんだという話にもなりかねない。

 扱う範囲は芋ヅル式にどんどん広がって、はては中国・満州、真珠湾(笑)。だからほどほどのところで手を打つ必要があると思う。そこで当面は太平洋の石炭と臨港鉄道周辺にかぎって話を進めることにしたい。

 本日のおまけは、『釧路叢書30 釧路港』(布施 正著 平成6年 釧路市発行)から転載する苧足糸(おだいと)の地図である。

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 なお「たんこう」は炭坑、炭鉱、炭礦
、炭砿とさまざまに表記されるが、基本的には参考とした文献の表記に従ったことをお断りしておきたい。しかし今回掲載した写真を見ればわかるように、正式には太平洋「炭礦」である。

(つづく)

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