本文に入る前に、前回の記事に登場した「臨港駅構内釧路石炭販売会社貯炭場用側線(延長115m売炭線」に関連する写真を掲載しておきたい。
2011年12月17日撮影 釧路石炭販売(株)臨港営業所
写真右手が臨港営業所である。矢印はかつて線路があったのではないかと推定される場所。下の矢印はともかく、上のほうはまずまちがいないと思うので、ついでに反対方向から撮った写真も掲げておこう。
2011年12月17日撮影 入舟の線路跡
臨鉄には側線がたくさんあったから、ここがどの線路なのかは不明だが、探せばほかにも線路跡がみつかるかもしれない。
さて今回扱う範囲は昭和40年代前半である。
効率化の時代
昭和40年1月25日、無線局設置の免許を受け、臨港、知人、春採の三ヶ所に基地局を新設、七ヶ所に移動局を設け、列車運行、貨車入換作業連絡用に無線機を採用した。
昭和40年2月17日、蒸気機関車を全廃。
これは昭和40年代の到来を象徴する出来事ではないかと思う。
昭和40年4月、石炭車セキ5両国鉄より払い下げ。
昭和40年5月、保線作業用タイタンパー2セットを導入し、突き固め作業の能率化を促進。
タイタンパーとは tie tamper、レールを持ち上げて枕木の下に隙間を作り、砂利を突き固めてから砕石を入れて、高さや左右の歪みを調整する機械らしい(Wikipedia による)。未確認だが、前回掲載した保線作業の写真に写っている車両がたぶんタイタンパーではないかと思う。
昭和40年7月15日、城山保線班を全廃し、全線を春採保線班と知人保線班の2班に編成。
昭和40年9月8日、自社開発のセキ号車石炭排出扉自動開閉装置を取りつけた改造車両が認可される。
昭和40年10月25日、春採駅信号取扱所増築工事竣工。
昭和41年1月春採~知人間石炭専用列車に上記新型セキ号車編成によるシャトル・トレイン方式を採用して試運転を開始、3月31日に試運転を終了し、4月1日から正式運転を開始した。
これはセキ号車列の両端に一両ずつ接続した機関車を、往路と復路で交互に使用する方式だろう。石炭を知人で自動排出したらすぐに春採へ戻れるという、たいへん効率的なシステムである。現在も石炭列車はこの方式で運行されている。
昭和41年4月、事務の効率化をはかり、いちはやく小型電子計算機(オキミニタック1002)を導入。
昭和41年5月11日、沼尻ならびに選炭場踏切遮断機を電動式に変更する工事が竣工。春採駅構内に人道跨線橋を架設、渡橋式を挙行する。
昭和41年6月1日、石炭自動排出扉開閉装置開発の功績により、吉田社長が運輸大臣表彰を受ける。
まだ実際に見たことはないのだが、石炭車の床部分が開き、石炭を重力によって落下させるしくみらしい。究極の省力化だと思う。ぜひ拝見したいものである。
昭和41年9月15日、春採~観月園間の本線と並行する春採貯炭場専用側線新設工事竣工。
昭和41年9月、緩急車2両廃車。
昭和41年10月15日、自社発注新造連接石炭車セキ8両導入(日本車輌製 形式セキ6000 積載重量60トン)。
前回写真を掲載した石炭車がこの新型車である。自動開閉装置について知っていれば、しくみを詳しく教えていただいたのだが、実に残念なことをした。
昭和41年11月12日、新造ディーゼル機関車D501(日本車輌製 重量25トン 定格出力320馬力×1)を使用開始(昭和54年2月20日廃車)。
D501は廃車になったので写真は撮れない。『臨鉄60年の軌跡』より転載させていただいた。
昭和41年12月1日、入舟駅(昭和15年開設)を廃止し、臨港駅に統合。
昭和41年12月、石炭車セキ3両を雄別鉄道に譲渡。石炭車セキ9両廃車。
昭和42年3月、石炭車セキ6両、無蓋貨車トム5両廃車。
昭和42年4月1日、改造して自動開閉扉を取りつけたセキ号車に替わり、自社発注新造連接石炭車セキ号車(60トン積)によるシャトル・トレインを本格的に運用開始。春採集会所を設置。
昭和42年4月13日、石炭車の大型化に対応し、春採~知人間の重軌条更換(30kg→40kg)工事竣工。
昭和42年6月3日、春採駅西部構内より分岐する非常貯炭場専用側線(延長500m)完成。
昭和42年9月7日、港町営業倉庫(2号倉庫 825平米)新築工事竣工。
昭和42年9月30日、港町ガラス専用プレハブ倉庫1棟(198平米)新築工事竣工。
昭和42年11月20日、同上の倉庫1棟(198平米)新築工事竣工。
昭和42年12月30日、機関車庫増改築工事竣工。
昭和43年4月20日、知人駅構内桟橋線入換制御所新設工事竣工。
昭和43年5月10日、臨港駅構内村上専用側線(延長68m)新設工事竣工(昭和57年9月15日廃止・撤去)。
昭和43年5月28日、春採~臨港間単線自動閉塞装置ならびに知人駅遠隔制御装置(R.C. 春採駅から知人駅を遠隔制御)の新設工事竣工。
これもはじめて知った。春採~臨港間についてはタブレット閉塞式が廃止になったわけである。また駅の遠隔操作というのはどんなしくみなのかわからないけれど、ずいぶん思い切った発想である。
昭和43年6月1日、知人駅を無人駅へ移行。
昭和43年6月10日、埠頭岐線より分岐するプロパンガス専用側線新設工事竣工(後年廃止・撤去)。
昭和43年8月6日、港町営業倉庫(3号倉庫 825平米)新築工事竣工。
昭和43年10月、無蓋車トム5両廃車。
昭和43年11月11日、春採駅構内選炭場線重軌条更換工事竣工(30kg→40kg)。
昭和43年11月28日、東釧路~城山間を票券閉塞式からタブレット閉塞式に変更。
昭和43年12月、コンピュータ FACOM 230-10を導入。
なお昭和43年には中央埠頭が完成した。のちに西港時代が到来するまで、この埠頭は東港の中核としておおいににぎわった。当ブログ11月21日の記事をご参照いただきたい。
2010年11月13日撮影 太平洋スカイランド跡
昭和44年5月、新造連接石炭車セキ1両導入。太平洋スカイランド、オープン。
太平洋スカイランド(のちのヒルトップ)については、当ブログ2010年11月13日の記事ご参照。
昭和44年8月、太平洋炭礦南益浦で採炭を開始。
昭和44年6月30日、港町営業倉庫(5号倉庫 825平米)新築工事竣工。
昭和44年7月1日、札幌営業所を開設し、清田倉庫の営業を開始。
昭和45年1月31日、異常低気圧接近により、春採~知人間6.3km付近(千代ノ浦海岸)の線路道床が、高波により延長150mに渡って決壊・流出、開業以来の大被害を受けたが、全社員による懸命な復旧作業の結果、2月5日20時に開通した。
昭和45年2月、雄別炭礦全山(雄別・尺別・上茶路)を閉山。
これにより、1万5000人がヤマの生活に終止符を打った(釧路新聞社『釧路港開港百年記念誌』より)という、当地方にとってはまさに大事件であった。
昭和45年3月、大阪で日本万国博覧会開催。
当時ぼくは京都市民のはしくれだったが、ラジオから繰り返し Welcome to EXPO '70, Osaka, Japan. という英語が流れてきたことを覚えている。6,400万人以上もの入場者が押し寄せた大イベントであった。
しかし官民挙げての大宣伝にもかかわらず、見かけ倒しの陳腐な内容であったことは否定できないと思う。ぼくは友人が東京からスポンサーといっしょに(笑)見物に来たので、タダにつられて万博会場へ行ったのである。
ともあれ大阪万博といい、70年安保といい、時の経過を測る目安になる出来事ではあった。あれから40年以上が夢のように過ぎ去ったわけである。
昭和45年4月15日、雄別鉄道48年に渡る営業を終える。
小学校の夏休みに雄鉄に乗って雄別まで行ったり、なにかのときに鉄橋を歩いて渡ったりした思い出がある。
炭礦が閉山すれば、大仕掛けな手品のように町がそっくりひとつ消滅し、鉄道も姿を消してしまう。わが臨港鉄道にはぜひとも末永くつづいてほしいと願うのみである。
昭和45年9月17日、新造電気式ディーゼル機関車DE601(日本車輌製 重量55トン 定格出力1,050馬力×1)を導入、10月7日使用開始。
この特集第2回に掲載した父の写真に写っているのが DE601である。トリミングして再掲載した。この機関車も現在みかけないから廃車になったのだろう。
昭和45年11月21日、永住町踏切第1種自動遮断機設置工事竣工。
以上見たとおり、この時期をひとことでまとめると、自動化・効率化の時代といっていいだろう。『臨鉄60年の軌跡』もいよいよ残り頁が少なくなってきた。
(つづく)
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