Daily Oregraph: お目こぼし捕物帖
本日の最高気温はプラス6.0度。昨日から今朝にかけては雨が降りつづき、道路の雪はかなり融けた。
しかし強風が吹き荒れ、ふだん穏やかな港町岸壁の水面にも波が立っていた。沖は大時化にちがいない。
-雪にならなくて助かりましたな、親分。
-おや先生、これはおめずらしい。ほんとに助かりましたが、日本海側はこれから明日にかけて猛吹雪だてえから気の毒です。まあお上がりください。
-景気が悪いから米櫃は空、たとえ金があったところで遠出はできん、どうも気分が晴れませんので、今日はひさしぶりに親分と捕物の話でもと存じましてな。
-ほんとに、こういうときこそお上が米倉を開けてお救い米を配ってくださるといいんですがねえ。で、今日の捕物帖は?
-『アビー・グレインジ(The Abbey Grange)事件』はいかがでしょうな。
-あっしにはその「グレインジ」てえのがよくわからなかったんですが。
-田舎御殿とでもいいますか、ここでは貴族の立派なお屋敷なんですが、もともとは穀物の倉をグレインジといったらしいから、米倉と関係がないこともないのです。倉に縁があるくらいだから、もちろん貧乏人のすみかじゃありません。
-なるほどアビー館(やかた)ですかね。この館で起こった殺しの謎を解くてえ話ですが、なかなかよく出来ている。ひとつひとつ証拠を丹念に調べて進めるホームズさんの推理にも無理がありませんね。
-例によってスコットランド・ヤードの警部さんがちょっと単純すぎるところなぞは、親分としてはおもしろくないかも知れませんがね。
-ハハハ、まあこれはお話ですからね、腹を立ててもしょうがねえ。それをいうなら、かわいそうなのはワトソン先生ですよ。下手人の目星をつけたホームズ探偵と一緒に廻船問屋に行くあたりで、先生にもなんとなく察しはつくはずなんだが、あれじゃまるで大人しく散歩に連いていく飼犬みてえじゃありませんか。あんなに頭が悪いはずはねえと思いますよ。
-この話でだれもが引っかかるのは、ホームズ探偵が最後に下手人をお上に引き渡さず、同情して見逃してやるところでしょうな。親分としては一言おありかと思うが……
-うむ、おっしゃるとおり、そこはむずかしいところです。しかし実をいうと、あっしも目こぼししたことがまったくないわけじゃねえんです。もちろんこちとらとしても腹をくくってしなくちゃならねえことですが、人情のしからしむるところですからな、場合によっちゃわからないでもありません。
-ケチな盗みを働いた貧乏人が重い裁きを受けているかと思うと、悪事を働いた旗本のバカ息子が大手をふって通りを歩いていたり、賄賂を貯めこんだ不浄役人がのさばっていたりしますからなあ。上級国民が天下の法を曲げている。
-ごもっとも。情けねえことにお上がだらしないから、怪傑黒頭巾だの桃太郎侍なんてのに人気が集まるんですよ。だけど、なんの権限もなしに人様の屋敷に侵入して、人をバッタバッタと斬り倒すんだから、いくら相手が悪人とはいえ、正義の味方というのはちと無理がある。ほんとは人殺しの無法者にちげえねえんですよ。
-旗本退屈男さんなどは将軍家から殺しの免状を授かっているそうですがね(笑)。ところで、人殺しを請け負う仕掛人なんてのもいるらしいですぞ。
-ははあ、先生、あなたも澄ました顔をしていなさるが、ひょっとしたら仕掛人の一味では?
-ご冗談をおっしゃっては困ります。そんな稼ぎがあれば、明るいうちから一杯やっていますとも。
-ハハハ、これは一本取られました。おい、八、聞いてのとおりだ。熱いところを一本持ってきな。
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