Daily Oregraph: うっかり捕物帖
本日の最高気温はプラス1.9度。朝はまだ寒く、裏庭の雪もそっくり残っておりますが、日中はポカポカしてまいりました。二月も今日はつごもりでございます。
-薄氷堂さん、道路の雪もだいぶ融けましたな。
-やあ先生、いらっしゃい。まあどうぞどうぞ。
-ではご免。ところで昨日はお留守でしたな。
-いえね、米櫃が空なもんですから、ダメもとで神社の境内に出かけたら、思いのほか商売になったのです。試験の出来を占ってくれという若い者が多くてね、学問を志す者が占いなんぞに頼っちゃいかんだろうと思うんですけど、稼ぎにはなるからありがたい。ヘヘ、まあごらんなさい。
ああ、薄氷堂の狭い台所に一升徳利が置かれているのは何日ぶりのことでしょうか。おまけに立派なスルメも一束並んでいるのだから豪勢です。
-しかし薄氷堂さん、占いが外れたらどうなさる? 受験生に恨まれますまいか。
-なあに、当たるも八卦当たらぬも八卦、苦情は天に持ちこんでもらいますよ。それよりも、さっそくスルメをあぶって一杯やりませんか。
-相変らず懐には冬の風ゆえ手ぶらで申し訳ないが、先日拝借した『ウィスタリア荘(Wistaria Lodge)事件』をお返し申します。
アチチと顔をしかめながら、丸く反ったスルメをひっくり返した手で受取った草紙を、薄氷堂はパラパラとめくってみるのでした。
-先生、このお話はどうでした?
-うむ、なかなかの力作でござった。はじめは単に奇妙不可思議なる殺人事件であったにすぎないが、調べを進めていくうちに、だんだん過去の複雑な事情が明らかになってくるという……ちょっと入り組んだ筋立てですから、二部構成になっているんですな。なかなか読ませる作品ですよ。
-こいつはドイルさんにとっても自信作だったんですね。ご本人がちゃっかり自慢しているんだからまちがいありません。
-はてな、自慢しているところなどありましたかな?
-ええと、最後のほうに……ああ、ここ、ここ。ホームズ探偵がワトソン先生にこういってます。「こみ入った事件だからね、ワトソン君、君好みのコンパクトなかたちに話をまとめるのは無理だろうな」とね。
-ああ、そこですか。実際に書いたのはワトソン先生じゃなくてドイルさんだから、これこのとおり、混沌を整理してコンパクトな小説にまとめ上げたおれの手際はどんなものだ、というわけですな。なるほど自慢になりましょうね。
-鼻高々というところでしょう。さて、スルメも焼けたし、燗のほどもよし。さあ先生、まず一杯どうぞ。
みなさんとっくにご存じのとおり、燗酒から立ちのぼる湯気のツンとした刺激に混じったスルメの匂いというのは、実にこたえられないものであります。ウソだとお思いならやってごらんなさい。もっともエゲレス人なら鼻をつまむかも知れませぬが……
-ところで薄氷堂さん、この短編には筋立てのほかにも異色なところがあります。お気づきになりましたかな?
-もちろんですとも。ベインズ警部の登場でしょう。田舎でくすぶっている、一見冴えない無骨者なんですが、意外や意外、ホームズ探偵も感心するほどの切れ者であったという設定になっています。しかも話の途中までは、スコットランドヤードの警部連同様の凡庸な人物であると思わせるところは、ドイルさんも芸が細かい。
-ベインズ警部を主人公にしたら、松本清張風の小説が出来上がるかも知れませんな。
-おっと、先生、松本清張は時代がずっとあとですよ。それでなくてもこのブログの時代設定はいい加減なんですから(笑)、うっかりしたことはおっしゃらないほうがいい。
-いやどうも、これは大失敗。
-失敗といえばね、この事件が起こったのは「1892年3月末頃」と明記されているんですが、ホームズ探偵は「1891年5月4日」にライヘンバッハの滝壺に転落したことになっています。死んだはずの探偵が『空家事件』で再びロンドンに姿を現わしたのは「1894年の春」ですからね、どうも勘定が合いません。
-やや、ほんとうですな。それは気づきませんでした。しかし普通の読者はそんなことは気にせんと思いますぞ。
-世の中にはホームズもの専門の暇人がいましてね、合わぬつじつまをむりやり合わせようと苦心しているらしいけれど、ワトソン先生の奥さんだって忽然と姿を消しているのに一切説明はないし、ドイルさんは案外無頓着な人なんですよ。
-ハッハッハ、とうとうドイル先生ご自身が酒の肴になってしまいましたな。
Comments
スルメ一束ってのは豪勢ですなあ。
我が家にはせいぜいさきイカぐらいで。
でもこれが柔らかくって丁度なんですよ。
最近は歯が悪くって、スルメは固くってねえ…
そっちの方がうまいってのは重々知っているのですが…
Posted by: 三友亭主人 | March 02, 2021 22:11
>三友亭さん
> 最近は歯が悪くって、スルメは固くってねえ…
右に同じ、でございます。残念ながら、とても食べられません。
しかし、ああまた昔のようにスルメを食いたいなあ、という願望がああ書かせたのでございます。
Posted by: 薄氷堂 | March 03, 2021 20:57