Daily Oregraph: 1960年代の男
本日の最高気温は-4.0度。風はなかったが、雪は凍てついてスコップを受けつけなかったので、雪の壁サボタージュは断念した。
活字に戻るどころか、今日も音楽三昧。せっせと YouTube から曲を拾った。クラシックの目玉は、まずはわが敬愛する上の写真のおじさん、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全15曲。ぼくは全曲のLPレコードを持っているけれど、イコライザ付きのアンプは復活したもののレコードプレーヤを置く場所がないから、YouTube に頼ったのである。
ついでグラズノフやカリンニコフなどの、まだ聴いたことのない交響曲をダウンロードし、シューマンやプロコフィエフなどの曲も大幅に追加した。せっかくの人類の宝の多くを知らぬままでは、死んでも死にきれない(笑)からである。
さてクラシックのほかに、ジャズやポピュラーなどのいわゆる「洋楽」(そういえば、小島正雄さんというすてきなおじさまがいたっけ)を次々と聴きながら漁っているうちに、あたりまえのことながら、ぼくの基礎は60年代にあることにあらためて気づいたのである。
たとえばジャズにしろポップスにしろ、50年代後半から60年代の曲が最もすんなり体に入ってくる。マイルス・デイヴィスの Bitches Brew は1970年だが、ぼくには難解な現代音楽の一種としか聞こえない(笑)。
もはや歌謡曲とはいいにくくなった若者向けの和製ポップス(?)などは、Occupied Japan の曲みたいに聞こえてしようがない。戦後間もなくから昭和30年代の歌謡曲のほうが、なじみのある日本語らしく聞こえるのだから、ぼくも完全にジジイになったわけである。歌詞の言葉数が増えるのに反比例して内容が希薄になったように感じるのである。
日本の歌謡曲だけではなく、横文字の流行歌も割と古いもののほうがしっくりくるからおもしろい。これはある時期に生まれ育った人間が共通して持つ、いわゆる時代感覚というやつなのだろう。理屈をもとにむりやり作り上げた感覚ではないから、いいの悪いのといってもはじまらないし、ジジイが若者に押しつけたってなんの意味もない。
もちろん古い名曲を若者が聴いても感動するにはちがいないけれど、身についた時代感覚がちがえば、感じ方もちがうはずだ。ショスタコーヴィチの曲にしても、ぼくなどはかろうじて彼と時代は重なるけれど、スターリン時代をじかに経験した人とぼくとでは、受ける印象に微妙なズレがあるにちがいない。
だから1960年代に出来上がった男としては、十代の諸君が懐メロに接するような心持ちでグラズノフを聴くしかないわけだが、さまざまな時代感覚の持主が聴きつづけることは決して無意味ではないだろうと思う。
食わずぎらいという言葉もあるしね、煙草をくわえながら苦い顔をして新聞を読んでいるおじさんの弦楽四重奏曲を、そこのお兄さんお姉さんも聴いてみませんか? 意外とお気に召すやも知れませぬ。
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