Daily Oregraph: 絵図を読む捕物帖 (1)
-おや、八五郎さん、親分はどうしなすったね?
-いえね、このところお上のご威光がめっきり衰えて、こちとらのいうことをだれも素直に聞かねえものだから、親分はどうも元気がありません。「八、おめえ、おいらの代りに先生のお話を聞いてきな」てえわけでして……
-さようか、それは残念。先立つものがないゆえ、たとえ疫病がはやっておらんでも、旅には出られん、酒も飲めんというわけで気分がくさくさするから、浮世離れした捕物のお話でもしようと思ったのですがねえ。
-ハハハ、先生、そう腐らない、腐らない。どぶろくでよけりゃ、ここに持ってまいりました。こいつを一杯やりながら、先生のご研究におつきあいいたしましょう。
-おお、さすがは薄氷堂さんですな。実にかたじけない。
というわけで、一同欠けた茶碗にどぶろくを注ぎまして口を湿らせ、いよいよ手習いのお師匠さんのお話が始まります。
え~、まずはお手元の絵図をごらんくだされ。これは英国の医師ワトソン先生がお描きになった、プライオリ・スクール事件の現場の略図です。この先生の文字は大変読みにくく、読み取るのに苦労しましたよ。特に Marshy Tract(湿地帯)across Moor には弱った。tract はなんとか読めましたが、Marshy は難物、なんでこんなに下手くそなのかなあ。ついでながら小文字の「e」をギリシャ文字の 「ɛ」としているところにご注目願います。これはコナン・ドイルの書き癖にちがいありません。わかりにくい文字は読めるようにしておきましたから、この絵図を詳しく見てまいりましょう。
まずあらすじを申し上げますと、プライオリ・スクールというのは、ええとこのボンボンが入らはる寄宿制の私立学校でしてな、この学校に地図の左上に見えるホールダネス館の10歳になるお坊ちゃまが入学いたします。ところがある夜、なぜか少年は部屋を抜け出して外出する。たまたまそれを目にしたハイデガーという(どこかで聞いたような名の)ドイツ語教師が少年の後を追うわけですが、二人はそのまま行方不明になってしまう。
事件の数日後依頼を受けたホームズの親分は、筋道を立ててこう推理いたします。まず少年の通る道として最初に考えられるのは学校前の街道(High Road)です。しかしこの晩街道の東の分れ道で立番していた警官(constable)は二人を目撃しておりません。また西側にある赤牛亭(Red Bull Inn)では病人が出たため、医師の到着を待っており、だれかかれかが店の前に立って街道を見ておりましたが、やはり二人は目撃されていないのです。
ご参考までに申しておきますと、ここでいう inn とは、ただの旅籠ではない。求めに応じて人も泊めるという居酒屋、つまり旅籠を兼ねたパブであります。この絵図の上にもう一軒ある闘鶏亭(Fighting Cock Inn)も同じですな。
さて二人が東西を走る街道を通らなかったとすれば、残るは南か北です。しかし街道の南側には囲い込み農地(Enclosed Country)が広がっている。世界史の時間にエゲレスのエンクロージャ(Enclosure 囲い込み)というのを習ったかと存ずるが、これは「ここの土地はおれさまのものだ」とばかり生垣や石垣なんぞで文字どおり地面を囲い込んだのです。実際本文中には「石垣で細かく区切られた」と書いてあります。
そうなると残りは北しかないが、ここは地元でラグド・ショー(Ragged Shaw)と呼ばれている木立(shaw)より向こうには、一面ムア(moor)が広がっている。ムアというのは「囲い込まれていない」草ぼうぼうの荒れた土地のことです。絵図のとおり、半径約6マイル(≒9.7 km)もあるから、少人数で捜索するのは困難をきわめること想像に難くありませんな。その足元の悪い広い荒れ地を、ホームズの親分とワトソン先生の二人で歩き回るというんだから大変。
絵図の中には3本の点線があり、それぞれダンロップ・タイヤ、牛の足跡、パーマー・タイヤと記されていますが、仮に A, B, C の記号をつけておきました。しかし話が長くなるので、それについては次回お話し申し上げましょう。
……そういってお師匠さんは茶碗に残ったどぶろくをゴクゴクとうまそうに飲み干しました。八五郎と薄氷堂は神妙な顔をして絵図を眺めております。
-八五郎さん、この土地のあらましは大概おわかりになったと存ずるが、どうです?
-へえ。しかし先生、学校からホールダネス館まで6マイルってんだから、ハイデガーの死体まで5マイルてえのはどうも縮尺が合わねえような気もしますがね。
-うむ、拙者もそこはちと気になりました。もう一つ、本文中にはダンロップ・タイヤの矢印の先端から左手数マイル先に館の塔が見えたとあります。しかし湿地帯を越えてすぐにタイヤの跡は見えなくなったともあるから、館までの距離からして矢印はずっと下にこなければなりません。まあ、しょせんは略図なんですから、この辺はあまり突っこまずにおきましょう。
すると薄氷堂が先生の茶碗にどぶろくを注ぎながら、
-ここからは次回のお話になるんでしょうが、タイヤってのは無論自転車のものにちがいありませんね。だとすれば、草の生い茂った荒れ地を自転車で走るのはさぞ大変でしょう。走れますかな?
-さよう、大変にちがいありません。実は拙者も蝦夷の草ぼうぼうの荒れ地を30分以上かけて踏破したことがありましてな、腰の高さまである草が密集したところはとても自転車どころじゃない、歩くのもやっとでした。しかし場所によっては草がまばらなところもあって、そこなら歩くのは少し楽でしたよ。エゲレスの現地へ行ってみなくてはわからないが、ここのムアには羊の通ったあとが無数にあると書かれているから、蝦夷地の家畜のいない草ぼうぼうとはちがって、案外自転車でもなんとか通れたんじゃないかと思います。
-先生、いよいよ次回は謎解きですね。
-そうそう、八五郎さん、ここでひとつ問題を差し上げよう。絵図が飲み込めたんなら、きっとわかりますぞ。この挿絵をごらんなさい。場所は闘鶏亭と館との間の街道です。この男は館から闘鶏亭へ向かって、必死に自転車をこいで、丘の下の岩陰に隠れているホームズ親分とワトソン先生の前を通過するという場面ですな。どこがおかしいか、わかりますかな?
-へえ、これがどうかしましたか? あっしにはよくわからねえが……
すると薄氷堂がニヤニヤしながら、
-八っつあん、いつもわしの物忘れがひどいとバカにしとるくせに、あんたもちと情けないではありませんか。絵図を見なさい。館は西、闘鶏亭は東、丘は北なんだから、館から自転車をこいできたはずの男は、これだと東にある闘鶏亭から走ってきたことになる。
-あっ、なるほど。これは迂闊だった。面目次第もねえ。
-ハハハ、シドニー・パジェット画伯もつまらないミスをしたものですな。ではお二方、捕物の話はまた明日ということにしましょう。そういえば台所に三日前の豆腐の残りがあるはずだから、そいつをつまんでどぶろくをもう一杯……
-いや、先生、酢豆腐はご免こうむります。
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