Daily Oregraph: 海軍条約捕物帖
本日の最高気温は6.2度。快晴だし気温も昨日より高いので暖かいはずだが、とんでもない。冷たい西風が吹きまくり、とても散歩に出る気分にはなれなかった。
そこで昔の写真を引っぱり出してごまかすことにした。といっても、記事とはなんの関係もない。2000年の11月に雄別炭鉱の廃墟を撮ったものをなんとなく選んだのである。最近はドライブする機会もめっきり減ってしまったが、雄別にはいずれもう一度行ってみたいと思っている。
さて今回は『海軍条約事件(The Naval Treaty)』を取り上げ、大胆にも親分の助けを借りずに謎解きに挑戦するというマジメな企画。内容はネタばれぎりぎりである。
まずは現場の見取り図から。
ひどく読み取りにくい筆跡だが、なんとなくえらそうに見える commissionaire とは、昔の役所でいう小使いさんまたは用務員に相当し、ここでは退役軍人組合のメンバーである。表口のホール(ここでは広間ではなく、玄関につづく廊下・通路の意味)に部屋があるから、守衞を兼ねていたらしい。CLERK'S ROOM は事務室でいいだろう。
次に事件の経過である。
(1) 外務省の官吏フェルプス君は叔父である外務大臣から、イタリアとの(フランス語で書かれた)秘密条約文書を翌朝までに筆写するよう命ぜられた。この仕事については、大臣とフェルプス君以外に知る者はだれもいない。
(2) 国家機密を扱う秘密任務なので、みなが帰らぬうちは仕事を開始できない。この日フェルプス君は、彼の自宅に滞在している婚約者の兄ジョーゼフが市内に来ており、午後11時の列車で帰るというので、自分も同じ列車に乗る予定だったから、急いで仕事をすませたかったのだが、あいにく定時を過ぎても同僚が一人だけ残っていた。
(3) そこでいったん外食に出てから事務室に戻ると、同僚はもう帰っていたので仕事に取りかかったが、予想以上に時間がかかり、11時の列車に間に合うどころか徹夜になりそうであった。やがて睡魔に襲われたので、コーヒーを頼もうとして用務員室に通ずるベルを鳴らした。
(4) ベルに応じて事務室に現われたのは用務員本人ではなく、フェルプス君が初めて見る用務員の細君であった(細君は亭主が疲れていたから代わりに来たのだとあとで説明する)。彼女は用務員室に戻って亭主にコーヒーを入れるよう伝え、もう時間も遅かったので自分は急いで帰宅した。
(5) その後しばらく待ってもコーヒーが来ないので、フェルプス君は様子を見るために事務室を出て階段を降りホールに出てみると、用務員は眠りこけていた。
(6) フェルプス君が用務員をゆり起こそうとしたとたん、けたたましくベルが鳴った。つまり無人のはずの事務室に誰かがいてベルを鳴らしたことになる。
(7) あわてて事務室に戻ってみると部屋に人影はなく、条約文書は机の上から消えていた。
(8) 心配して駆けつけた用務員と一緒に、フェルプス君は急いで裏口へ向かい外へ出た。そのとき近くで鳴った時計のチャイムは10時15分前を告げていた。
(9)(たぶんそれから数分以内に)近くの通りにいた警官に事情を告げると、彼は5分ほど前に女性を一人見かけただけだといい、それは用務員の細君らしかった。
実は以上の情報をもとに、捜査を進めて消去法でチェックしていくと犯人は判明するはずである。しかし読者はすっかり惑わされて、スコットランドヤードのフォーブス警部同様、さっぱり真犯人にたどり着くことができないのである。
見取り図に従うと、メインドア側にはフェルプス君と用務員がいたのだから、犯人がサイドドアから出入りしたことは明らかだ。彼ら以外に建物内にいたことが確認されているのは用務員の細君だけだから、当然彼女が第一の容疑者である。しかも用務員本人は実直な人柄だが、細君のほうは一癖ある女らしく、相当しつこく警察に調べられている。
次に疑われるのは定時を過ぎてしばらく残業していた同僚の Gorot 君である。問題の条約はフランスとロシアにとって不利となる内容だから、フランス系の彼が疑われたのは自然である。
だがその後の調べで二人ともこの犯罪には無関係であることがわかり、捜査は行き詰まる。ほかに現場にいたと思われる人物は見あたらないし、どないしましょ?
さらに問題をややこしくしている点が二つある。一つは、いつもはベルを鳴らすと用務員本人が用を聞きに来るのに、事件当夜にかぎって細君がやって来たことだ。しかもフェルプス君が用務員室に行ってみると細君の姿はなく、ご本人は眠りこけていたという。これはなんとなく計画的犯罪を匂わせる作者の細工であって、つくづくコナン・ドイルは食えないオヤジだと思う。
もう一つはフェルプス君が不在の事務室で、犯人がわざわざベルを鳴らしたことである。犯人は大胆にもベルを鳴らしてから逃亡したのか、それとも…… これは「当夜条約文書が事務室内にあることは当事者二人以外はだれも知らなかった」という事実にかかわる重要な点であって、作者の手際が冴えているところだと思う。さすがはコナン・ドイル、あっぱれだと感心するしかないが、ネタばれになるから詳しくは書けない。
以上の二点について考えすぎると作者の思う壺にはまるから、とりあえずそれらは無視して、「犯人はフェルプス君が用務員室にいる間に事務室に出入りできた人物しかいない」という最重要ポイントだけを頭に置きながら、(1)から(9)までを消去法で検討すれば、答は出る……はずである。だんだん読んでいくと、なんとなくあいつが怪しいなあとは感じるのだが、どうして読者には確信が持てず、ホームズの種明かしを待たねばないのだろうか?
それは……作者が大事な情報をあいまいにしているからだ。そうでなければ、必ず早い段階で真実を見抜けるにちがいない。つまり真犯人は建物の構造だけでなく、ベルが用務員室に通じていることまで熟知している必要があるけれど、読者にはその点の情報が十分に与えられていないのである。事件解決後に明かされても困るんですよ、ドイルさん。
探偵小説はフェアプレイだとはいいながら、やっぱり手品の種は見えにくく細工してある。この作品中でホームズ自身がいうように、「重要な点が無関係な事柄によって隠されていた」のである。
なお話をさらにややこしくさせぬためにあえて触れなかったけれど、フェルプス君が机の上に置きっ放しにした条約文書はフランス語で書かれていたのだから、一瞬にして内容を見抜いた犯人には相当の教育がなければならない。これも案外重要な点だと思うけれど、作品中では十分説明が尽くされているとはいえないような気がする。
とまあ、えらそうに書いてはみたが、この作品は全体としてよく出来た作品だと思う。『シャーロック・ホームズの回想』シリーズの中では、他の短編より原稿枚数が5割ほども多い力作である。わざわざ手間をかけて細かい点を突っこみたくなるのは(笑)、傑作であるあかしだろう。ぜひ全編を通してお読みになるようお薦めしたい。
【追記】意外にも外務大臣閣下が犯人であった、などということはありえない。ひとつだけ大ヒントを差し上げておくと、フェルプス君が裏口から外へ出たのが10時15分前だったことは、ホームズがいうように「非常に重要」である。……と、ここまで書けばもはや答はわかったも同然だけど、 広い世の中にはそうお考えになる方もいないとはかぎらないから(笑)、念のため付け加えておく。
Comments
なぞは深まるばかりですね。
婚約者の兄ジョーゼフに1票
Posted by: しょうちゃん | November 25, 2020 03:54
>しょうちゃんさん
こんな面倒くさい記事(笑)をお読みいただいたとは恐縮です。
> なぞは深まるばかりですね。
ネタばれせずに書こうとすればこうなります。かってわかりにくいかも……
> 婚約者の兄ジョーゼフに1票
正解とも不正解ともお答えできないのはつらいところです。
そこで「この短編は古典中の古典だから、今さらネタばれもないだろう」と勝手に考え直し、あとで続編をアップしてすっきりお答えしましょう。
たとえあらかじめ答がわかってしまったとしても、それなりの楽しみ方はあると思いますので(刑事コロンボ風味?)。
Posted by: 薄氷堂 | November 25, 2020 12:54