Daily Oregraph: チャート式海軍条約捕物帖
本日の最高気温は10.2度。暖かかったけれど、太陽が雲に隠れるとたちまちひんやりする。
ああ、またこの季節がやって来た。スコップを見ると雪かきの悪夢が……(笑)
さてお話はいっぺんに変りまして、ここはさる景気の悪い貧乏長屋。火鉢を抱えこむように座った老人が煙管を吹かしておりますと、
-ごめん。薄氷堂さんはご在宅か?
ふらりと入ってきたのは、尾羽打ち枯らした浪人体の中年男です。
-おや、こりゃあお珍しい。手習いのお師匠さんじゃありませんか。汚いところですが、まあお上がりなすって。今日はまたどうなさった?
-実は先日親分からエゲレスの『海軍条約捕物帖』なる戯作をお借りしましてな、読んでみたらどうも私には腑に落ちんところがあります。そこでこの界隈で名高い暇人のあなたのご高説をおうかがいしたいと存じて参った次第。
-暇人とは恐れ入りますが(笑)、こないだ私もそいつを読みましてな、いささか首をひねりましたから、ぜひ先生のお話をお聞きしたいもので……
-まずはこれをごらんくだされ。
といってお師匠さんが差し出したのは一枚の紙で、
-へえ、これはまた。先生、こんな手間をかけるとは、お忙しくはなかったので?
-いや、まことにお恥ずかしいが、疫病がはやってこの方、さっぱり子供らが寄りつきません。拙宅などは隙間だらけで、すこぶる換気はよろしいのだが……
-どれどれ、拝見いたします。
-書類を失ったフェルプス君が役所の裏口を出たのは21時45分。これはまちがいないので、その前後を推定したのがこの表でござる。
お師匠さんの説明によると、
コーヒーがいつまでたっても来ないのでしびれを切らしたとすれば、フェルプス君は少なくとも30分は待ったはずである。そこで途中の経過を計算に入れて、コーヒーを注文した時間を21時05分頃とすれば、大体つじつまが合う。
21時10分前後に沸かし始めたお湯が噴きこぼれて亭主が居眠りしている時間、たぶん21時25分あたりにそれを放ったまま帰宅するはずはないから、細君が用務員室を去ったのはそれよりも前の21時20分頃としたのである。
ホームズも指摘しているように、フェルプス君が用務員室に着いたあとベルの音の意味に気づいて事務室へ向かうまでに数分経過しているから、用務員室を出たのは21時39分から40分。
事務室に21時41分に着いたとしても、書類の盗難に気づいてからあたりをあわてて点検したりしたはずだから、21時45分に裏口から外へ出て時計のチャイムを聞いたとすれば、時間的には計算が合う。
-なるほど、多少のずれはあったとしても、まずこの辺でしょうなあ、先生。
-そう思っていただけますかな。さてこの中で妙だなと気づくのは……
-用務員の細君の動きですな。21時20分頃にたぶん表口から外へ出て、43分に警官に目撃されるまでの20分以上、どこをウロウロしていたのやら。
するとお師匠さんはニヤリとして、
-これはですな、きっと作者の手抜かりに相違ござらん。細君をことさらに怪しく見せようとして余計な小細工をしたばかりに、つじつまが合わなくなってしまったわけです。
-警官がそこに立っていたのは15分前からだというから、細君が役所から出た13分後ですな。だから女は細君によく似た別人だったとも考えられますが、警官から女の特徴を聞いた用務員が、すぐに「それはうちの女房です」と請け合っている。とっくに帰ったはずの細君が5分間に目撃されたってのはおかしいと思うのがふつうなんですがね。
-まあ、そこは用務員の気が動転していたせいだとしておきましょう。さてここまででハッキリしたのは、犯行時間は21時38分頃、犯人はわずか2分ほどで逃走したことですな。一瞬の早業といってよろしかろう。
-ところで先生、ホームズ探偵は「21時45分頃に外務省付近で乗客を降ろした馬車がわかればご連絡願う」という懸賞金付きの新聞広告を出していますね。
-ふむ。犯行が21時38分だとすれば、犯人が裏口から入ったのは、ちょうどフェルプス君が用務員室に入った36分前後でしょうから、45分ならもう逃げたあと。広告を出すなら「21時30分頃に……」とするのが自然です。作者の計算がおおざっぱだったとわかります。
ここで一息ついて薄氷堂が渋茶を入れ、二人はお師匠さんの手土産の饅頭をパクつきます。お酒のないのが悲しいところでございます。
-さて先生、いよいよ犯人を決めなくちゃいけませんな。
-さよう、では前回の記事から、一人一人吟味してまいりましょう。まず条約文書の存在は外務大臣とフェルプス君以外は知らなかったのだから、計画的犯行というのはありえません。そしてその二人は当然犯人ではござらん。
-用務員ももちろん犯人じゃない。犯行の時間的余裕があった細君は怪しさ満点ですが、その後のお調べで白とわかりました。ちょいと残業したという同僚君も白。すると残るのは……
-ただ一人、フェルプス君の婚約者の兄であるジョーゼフ君か、あるいはまだ名前の出ていない通りすがりの第三者ということになりますね。
-もし第三者だとすると、わざわざ紙切れを盗むからには、その値打ちのわかる外務省の役人か、フランスかロシアのスパイということになりますが、特に目的もなく危険を冒して侵入したスパイが、たまたま無人であった事務室で偶然条約文書をみつけるとは話がうますぎます。とすると、先生、残るはジョーゼフ君しかいないんですが……
-そこなんですよ、作者のずるいところは。ホームズ探偵が説明するには、ジョーゼフは外務省内の事務室をよく知っていて、その夜は一緒に23時の列車に乗るはずだったフェルプス君を迎えに立ち寄ったというのです。ジョーゼフが事務室に行くとフェルプス君の姿が(用務員室へ行っていたから)見あたらない。そこでベルを鳴らして来訪を告げたんだが、ふと机の上にある文書を目にして、その値打ちをたちまち見抜き、大金を稼ぐのが目的で懐に入れると一目散随徳寺。まあ、そんな筋書きです。
-ふつうに考えれば、駅に行く途中に役所に寄ったって、フェルプス君が先に出かけちまうかも知れないんだから、もし不在なら時間の無駄になる。あらかじめ23時の列車に間に合うように、つまり十分余裕を見て21時半頃に役所に寄るという約束をしておいたはずです。
-いや、薄氷堂さんもまだボケてはおられんようで、ご明察ですなあ。私もさよう考えます。ところが、そう書いてしまうと犯人がすぐにバレるので、あくまでも偶然で押し通すしかありません。ついでにいうと、ジョーゼフが外務省の建物に詳しかったと匂わせることは一切書かれていませんね。これも目くらましといえましょうな。
-私の考えだと、迎えに寄ったんなら、ジョーゼフは裏口付近に馬車を待たせておいたはずです。警官は表通りに立っていたとしても、馬車の出入りに気づいた可能性は大ありですね。それに場所が外務省ですから、馭者は忘れはしまいし、しかも懸賞金が大枚10ポンドだというんだから、ホームズの出した広告になんの反応もなかったというのは不自然じゃありませんか。
-ハハハ、こう寄ってたかって細かいところをつつかれては、戯作者も大変でござろうが、これというのも疫病でお互い商売上がったり、ヒマな時間が増えたせいでしょうなあ。
-そうなんですよ。ヒマだから酒のひとつも飲みたいが、失礼ながら先生をあてにはできません。どうです、これから二人で親分のお宅に押しかけるというのは?
Comments
やらかしてしまった訳ですね。
クイズ番組で
ボケるつもりが、正解を一発で答えてしまった
お笑い芸人の気持ちですよ。
婚約者の兄ジョーゼフは23時の汽車に乗る。
犯行はそれより前ってあたりだけで、判断した次第です。
推理物は奥が深いですね。
Posted by: しょうちゃん | November 27, 2020 03:33
>しょうちゃんさん
なにしろ百年以上も前の有名な作品ですから、考えて見れば今さらネタばれの心配をする必要なんてないでしょうね。
あらためて思うのは、用務員の細君の行動を怪しく見せるために、余計なことを書きすぎて収拾がつかなくなっているということです。
たとえば警部は現場から用務員宅まで30分で到着しているのに、細君はその3倍半も時間がかかっています。細君は乗合馬車と直行で走らせる馬車とのちがいだと弁明していますが、いくらなんでもちがいすぎて、とても信じられません。ぼくなら、警部が用務員宅に着くと、細君はビスケットをつまみながらゆっくりお茶を飲んでいた、とでも書くでしょう。そのほうが本当らしいですから。
まあ、探偵小説なんて娯楽のために読むわけですから、ふつうはなんとなく読んでしまい、矛盾があっても気づかないのはあたりまえだと思います。
しかし今回気づいたのは、こういうしつこい読み方をすると、もっと楽しめるんじゃないか(笑)ということです。
Posted by: 薄氷堂 | November 27, 2020 09:06