Daily Oregraph: 市民 Kane 事件
以下はワトソン医学博士のノートからの引用である……
ぼくの結婚以来すっかり疎遠になっていたホームズの部屋をひさびさに訪ねると、相変らずパイプ煙草の煙がもうもうと立ちこめていた。
-君、いくらなんでも吸い過ぎじゃないか? なにしろ禁煙が正義のご時世だから、ぼくの書いた君の事件簿などは、煙草の場面が多いというので、いずれ発禁になるかもしれないぜ。
-おお、ワトソン君か。ふむ、背広と靴をいっぺんに新調したところを見ると、ずいぶん仕事がうまくいっているようだね。
-いま何か事件を手がけているのかね?
するとホームズは、くわえていたパイプをテーブルに向けて、
-その写真を見たまえ。
-いつもながら物を知らないね、君は。日系人だからケインじゃない、カネ氏さ。先月不審死を遂げた、拝金教の教祖様だよ。それは集会の写真だ。
-へえ…… で、どんな人物だったのかね?
-その名のとおり金の匂いには敏感で、労働者からのピンハネや税金逃れが大の得意。モリアーティ教授なみに口がうまく、一言に三言を返し、ああいえばこういうという具合だから、まともな連中は閉口してみな離れていったのだが、だまされる信者は後を絶たなかった。あこぎな手口で儲けに儲けた金を、自宅に作り付けの巨大な金庫に貯めこんでいたんだ。
-そんな男が死んだって、むしろ世のためだから、だれも困るまい。で、君にどんな依頼があったのだ?
-カネ氏の死後、大金庫が破られて、まだ処分していない金がそっくり盗まれたのだ。むろん守銭奴の金がどうなろうと、ぼくの知ったことではないが、スコットランドヤードのレストレードが泣きついてきたのさ。
-なるほど。でもよくそんな仕事を引き受けたものだね。
-カネ氏の臨終のことば、それが謎なのだよ。それを聞いて俄然興味が湧いたというわけさ。
-謎のことば、とは?
-うむ、どうもはっきり聞き取れなかったらしいが、立ち会った看護婦の話によると、rosebud(バラのつぼみ)とつぶやいたらしい。
-ロウズバッド? なんだい、それは?
-それがわかれば苦労はないよ。レストレードは困り果てている。
-でも君のことだから、もう見当はついているんじゃないか?
しかしホームズは返事をせず、目を閉じて盛んに煙草の煙を吐き出すのみであった。
ぼくもあきらめてパイプに火を点けた。いったんこうなってしまうと、ホームズは半日だろうが一日だろうが、そのまま口をきかないのである。
さてこの盗難がその後ヨーロッパ中を震撼させる大事件に発展し、ホームズの獅子奮迅の活躍によって、大がかりな犯罪組織が一網打尽にされたことはすでに知られているとおりである。組織の首魁が南仏の田舎でバラを栽培している謎の東洋人であったこと、そして例によってレストレードが手柄を横取りしたことは申し上げるまでもない。
……不幸にもワトソン博士は原稿を書きかけたところで急逝し、捜査の詳細は今日に至るまで不明のままである。まことに残念というほかはない。
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