Daily Oregraph: 霜月のリアリズム
公園の落葉。
あっという間に11月である。11月には冬の食料にするために家畜を殺したから、アングロサクソン語では Blotmonath (blood month 血の月) といったらしい。同じ赤でも紅葉ではなく血液とは、さすが肉食文化はちがうものである。
和名では霜月または霜降月……といえば、ぼくは頭髪に霜の降りた爺さんを連想する。
旅の坊さんが臨港鉄道の線路跡をてくてく歩いているうちに、
-急ぎ候ふほどに知人(しりと)の浜に着きて候。
てなことをいう。いつも不思議に思うのだが、だれに聞かせようとして、こんなひとり言をいうのだろうか。
-あまりに苦しう候ほどに、これなる朽木に腰をかけて休まばやと思ひ候。
またしても要らざる説明をしながら、坊さんは砂浜に打ち上げられた流木に腰かけて、握り飯を食おうとする。なにしろ歩き通しだから、当然腹が減る。ここで坊さんが握り飯を食うのはリアリズムである。
そこへいきなり小屋から白髪頭の翁が現れる。やせ衰えた、皺だらけの貧相な爺さんである。生気のない顔はとてもこの世の者とは思われず、とたんにリアリズムが怪しくなる。
坊さんと翁は、型どおりに問答をするわけだが、たいてい翁は幽霊であったというオチになる。ときにはこの翁、今どきの無学な大臣より千倍も教養のある左大臣の亡霊であったりするから油断できない。人と幽霊はみかけによらないのである。
しかしぼくは21世紀の味気ないリアリストである。ここで現実に引き戻さなくてはいけない。
-おい、坊さん、握り飯はのどがつまるべさ。お茶でも入れるかい?
-おや、お爺さん、これはどうもご親切に。
-ついでにシシャモ焼くから、ちょっと待ってれや。
浜風にあてて干したシシャモはうまいものだ。その生臭ものを坊さんがムシャムシャ食うところは、現代リアリズムである。
-いや、すっかりご馳走になりました。おみかけしたところ、ただのご老人とは思えません。(と、芝居がかって)いかなる人の果やらん、その名を名のり給へや。
-バカ、なにこいたもんだか。おれはただのジジイさ。はんかくさいこというんでねえ。
ああ、霜月のリアリズムは、やっぱりつまらない。
Comments
落ち葉かあ・・・
こっちでは今月すえですかね、こんなふうになるのは。
最近少しずつ遅くなっているような・・・そういえば曼珠沙華も今年は例年よりちょうど1週間遅くなって、その盛りが彼岸を過ぎてから・・・でした。
Posted by: 杉江文彦 | November 02, 2019 08:44
>三友亭さん
落葉もいいけれど、シシャモはもっといいですよ。いくら待っても大和のくにではシシャモは獲れますまい。
今夜はわが家で干したシシャモをたっぷり味わいました。三友亭さんも旅の僧となっておいでになればよかったのに(笑)。
Posted by: 薄氷堂 | November 02, 2019 22:00