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January 29, 2019

Daily Oregraph: 裏庭画報 グースベリは死なず

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 09時50分の南の空。雪がちらほらと舞っている。午後からは青空が出た。最高気温は0.3度。

 昨夜からの積雪は約3センチほどであろうか。この冬は特に雪が少なく、大いに助かっている。

 毎度雪かきの話ではご退屈だろうから、

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これをごらんいただきたい。

 え、十分退屈じゃないか、って? まあ、そういいなさんな。(たしか)二年前に枝を切り取ってここに植えたグースベリなのだが、しっかりと生きている。

 植物は実にしたたかなものである。ぼくなどはその冬に耐える姿にジーンと感動するけれど、金が命の新自由主義者たちには無縁の境地であろう(笑)。

 ここに断言しておきたいが、人類が滅亡したあかつきには、墓地だけじゃない、高級外車も、ブランドもののバッグも、銀行の金庫も植物に占領されることは確実だ。それが自然の摂理である。

 もはや墓前で紙銭を燃してくれる人もいなければ、お経を唱えてくれる坊さんもいないから、自分だけあの世で楽をしようったってそうはいかない。そうなれば金持と貧乏人、人種や肌の色、優等生と劣等生の区別もなく、人類滅亡してはじめて平等が実現するとは、ハハ、のんきだね。

 そんなことを教えてくれた哲学的なグースベリの枝だが、ここは日当りが悪すぎて実がならないから、今年は場所を変えてやりたいと思う。春を待とう。

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January 25, 2019

Daily Oregraph: 0.9度のぬくもり

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 昨日の午後に降った雪はわずか1センチほどだから、シュトーレンにまぶした粉砂糖のようなものであった。必要もないのに雪かきしたのは、われながら立派である。

 日中はひさびさに気温が上がり、ごらんのとおり、道路の雪はかなり融けている。よほど暖かいだろうと思いのほか、最高気温は0.9度にすぎなかった。つまりわずかでもプラスだとまるでちがうのである。

 
 さてこんな低調な記事ばかり書いていると、あいついよいよボケはじめたかと疑われそうだけれど、当分は大丈夫じゃないかと思う。なにしろケンブリッジの先生が書いた『価値と分配の諸理論』という恐ろしい(笑)専門書と、奇人イヴリン・ウォー(ご存じかな?)の小説を併読するという無鉄砲な真似をしているのである。

 どこまで理解できたかは別として、アダム・スミスは一応読破したけれど、経済学は純然たるど素人だから、リカードだのシュンペーターなどといわれても、そういえばどこかで名前を聞いたなあという程度にすぎない。まだ十分の一しか読み進めていないが、これまでに理解したのは、リカードという人はなかなか偉い人物だということだけである(正直に恥をさらしているのだ)。この先どうなるかはまったくわからないが、単語だけは記録したいと思っている。

 ウォーは過去にいくつか読んでいるが、今手にしているのは「戦争三部作」のひとつ『士官と紳士』で、いやこれがなかなか読ませるのには驚いた。無類のおもしろさなのである。日本の戦争小説に見られる暗さや悲壮さはまるでなく、戦争を賛美しているわけではないけれど、ユーモアたっぷりで、いわば余裕派といってもいいのではないか。とにかく人物描写とセリフ回しが抜群にうまい。

 ブログが低調なのは、雪かきと読書のせいだとご理解くだされば幸いである。

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January 24, 2019

Daily Oregraph: 熱燗未満

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 吹雪だというから20センチくらいの積雪は覚悟していたのだが、結果は約5.5センチ。雪の少ない太平洋岸のありがたさである。

 結局前回よりもほんの1.5~2センチほど多めだったに過ぎないけれど、そのわずかの差によって案外余計な手間がかかるのには、あらためて驚いた。

 それでも作業は楽々終ったから、とても真っ昼間から熱燗を飲む資格はない。残念である。しかし予報によれば、今日の午後から夜にかけてまた雪が降るらしいので、明朝また雪かきの可能性はある。

 ほかにネタもなし、また明日結果をご報告するつもりである。

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January 21, 2019

Daily Oregraph: 迷い雪

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  う~む、どうしようかなあ……と、ひさびさに降った雪はほんのわずかだったから、雪かきすべきかどうか大いに迷ったのも無理はない。

   いくたびか雪の深さをたづねけり  子規

 -まず一寸ちょいというところでしょうか。

 -そうか……

 子規先生、もしこのとき病床にあったとすれば、自ら障子を開けて確かめることができなかったのだから、いろいろな想像が湧いてくる。だが雪の深さによってスコップを持とうかどうか決めようという男には、詩心など微塵もない。

 -ちぇっ、一寸とはまたえらく半端じゃないか。ばかにしてやがる。

 結局雪かきはしたけれど、あっという間にすんだから、実際その必要はなかったかもしれない。

 しかしである。天気予報を見てギョッとした。なんと24日は吹雪のマークがついているではないか。わずか数センチの積雪といえども、いまの気温では融けずに残るのだから、やはり除雪しておくにかぎる。

 わずか一寸の雪では熱燗を一杯やる資格はないが、吹雪となれば話は別である。ヤケ酒になる可能性だってあるだろう。

 結果については、次号を待たれよ。

【追記】

 上に引用した子規の句は角川書店編 俳句歳時記に拠ったものだが、ネット検索してみると、圧倒的に多く「いくたびも……」として紹介されている。

 俳句のことだから、ひょっとしたら両バージョンあるのかもしれないけれど、ぼくの印象では「いくたびも」はちょっとくどく、シーンとした間が感じられない。「いくたびか」を採りたいと思うがいかが?

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January 17, 2019

Daily Oregraph: すゐとんの話 (2)

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 日本海側は荒れ模様だというのに、釧路はごらんのとおりほとんど雪がない。ありがたいことである。

 さて前回は田山花袋の「すゐとん」を取り上げたが、「すゐとん、すゐとん……」とつぶやいているうちに思い出したのが、宮澤賢治の「停留所にてスヰトンを喫す」である(本来全文を掲載すべきであるが、長くなるので青空文庫などをご参照いただきたい)。

   わざわざここまで追ひかけて
   せっかく君がもって来てくれた
   帆立貝入りのスヰトンではあるが

というすゐとんは、 

   この田所の人たちが、
   苗代の前や田植の後や
   からだをいためる仕事のときに
   薬にたべる種類のもの

というから、たとえ帆立貝が入ってなくても、このへんの農家の人々にとっては、すゐとんは体が温まるから、まずは中等以上の部類に属する食べ物だったのだろう。

 しかしあいにく熱のある賢治は食欲がなく、

   ああ友だちよ、
   空の雲がたべきれないやうに
   きみの好意もたべきれない
 

せっかくの心づくしのすゐとんを食べ残してしまうという、万感の思いがこもった詩である。

 腹ぺこの本屋の小僧には「非常に旨さうに思はれ」、賢治の友人がわざわざ停留所までもって来てくれたというすゐとんは、昼飯に二万円の天麩羅を食って得意顔をしている連中には無縁のごちそうである。もちろんB級グルメなどとはいいたくない。

 丁度すゐとんのうまい季節である。ひさしぶりに熱いのをフウフウいいながら食ってみたくなった。あなたもぜひ……

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January 13, 2019

Daily Oregraph: すゐとんの話

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   そろそろ生存証明写真を載せなくてはいけないころである。

 どうしたわけか、読書は比較的順調にはかどっている。要するにインターネットなどに割く時間を減らせばわけはない。スマホ中毒のみなさまも、たまには正気に返ってみてはいかがであろうか。

 ぼくはアカウントを持っていないから、人様のツイッターをのぞいて見るだけなのだが、あちこちで政治向きの記事を拝見すると、某首相や官房長官の写真が多いのには閉口する。飯がまずくなるから(笑)、あんなつまらぬ写真はできるだけ減らしたほうがよかろうと思うのである。

 さて悪相を見て減退した食欲を回復するには、うまそうな食べ物の話題が有効だし、もりもり食べて元気になれば、次の選挙にはぜひ投票しようという意欲もおのずと湧くにちがいない。

 そこで今日は「すいとん」を取り上げてみた。

 夜は通りに種々な食物の露店が出た。鮨屋、しる粉屋、おでん燗酒、そば切りの屋台、大福餅、さういふものが小さい私の飢(うゑ)をそそつた。中で、今は殆どその面影をも見せないもので、非常に旨さうに思はれたものがあつた。冬の寒い夜などは殊にさう思はれた。それはすゐとんといふもので、蕎麦粉かうどん粉をかいたものだが、其の前には、人が大勢立つて食つた。大きな丼、そこに入れられたすゐとんからは、暖かさうに、旨さうに湯気が立つた。そこにゐる中小僧(ちゆうこぞう)が丼を洗ふ間がない位にそのすゐとんは売れた。-田山花袋『東京の三十年』より

 はっきり年代は書いていないけれど、たぶん明治14~15年ころの話だろうと思う。当時花袋は東京に出てある本屋の小僧として働き、腹を空かせながら、重い本を背負って町々を歩き回っていたのである。

 
ずいぶん昔からある食べ物なのに、「すゐとんといふもの」というからには、田山少年はそれまですいとんを知らなかったらしく、そこがぼくの興味を引いた。

 「今は殆どその面影をも見せない」とあるが、すいとんそのものは庶民に食べられつづけていたわけだから、すいとんの屋台が町から姿を消したというのだろう。

 けっしてぜいたくな食べ物ではないし、天下の美味とまではいえないけれど、腹を空かして金のない小僧にとっては、初めて目にした「すゐとんといふもの」がいかにもうまそうに見えたらしい。ちょっとホロリとさせられるところである。

 ぼくはすいとんによだれを垂らしはしないが、おでん燗酒の屋台にはふらふらと引き寄せられそうな気がする。そこへすいとんの湯気が流れてくる。汁粉の甘い匂いも漂ってくる。あとで子どもの土産にと、大福の屋台をちらっと横目に見て免罪符を買ったような気分になる。

 ぞろぞろ歩く人々の靴音や下駄の音にまじって人力車が通る。馬車が走る。さっきの小僧さんは、なけなしの小銭を握りしめて散々迷った末に、すいとんを求める人の列に加わったようだ。

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January 07, 2019

Daily Oregraph: 刃なしの梨

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 あいかわらず好天がつづいているけれど、日陰の通りはごらんのとおり。

 さて正月早々意外の出来事があったため、ちょっと生活のリズムが狂い、ブログをさぼっていたら、案の定、あいつ倒れたんじゃないかと心配して、メールをくださった方がいる。そこでしょうもない生存証明写真を載せた次第である。

 読書はつづけているのだが、案外こういうときは頭が受動態(?)になっているものだし、そうでなくとも本によってはネタにしにくいものもある。

 しかしなにも書かないのは無愛想だから、ジョイスの小説からほんの一節を取り上げてみよう。英単語をふたつ、確実に覚えられるので、受験シーズンにはぴったりかもしれない。

 ブラインドの端と窓枠との隙間から、青白い光がひとすじ洋梨(pear)のように射し込んだ。-『若き日の芸術家の肖像』(第3章)より

 はて、「洋梨のように」とは奇っ怪な。いくらえらい小説家だって、そんなへんてこな比喩を用いるものだろうか?

 察しのいいお方ならすぐにわかるように(高校一年生ならほめてあげます)、もちろんこれは誤植である。この場合、pear は洋梨というより「刃なし」だから(笑)「刃」をつけて spear(槍)にしてやれば、一条の光が鋭く射し込んだという、うまい形容になる。

 とにかく誤植には腹が立つものだ。ヘンだなあとは思いながらも、意味がすぐに取れぬ場合、まずは自分の頭を疑わざるをえないからである。ちゃんと活字を組んでくれよな。

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January 01, 2019

Daily Oregraph: 新年のご挨拶

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 晴天の下雌阿寒の山並みを望みつつ新年のご挨拶を申し上げます。本年もマイナーな当ブログをどうかよろしくお願いいたします。

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 今年こそ悪徳政治家どもに神罰の下らんことを祈願しようと思ったのですが、なにしろ根っからの行列ぎらいときていますから(笑)、いずれあらためて出直すことにいたしました。

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 おねえちゃんのおみくじ吉凶いずれかは存じませぬが、世の中良いことはそうないけれど、悪いことばかりでないことも確かです。いやなことの多い時代ですが、どうかめげずくじけず生き抜いてください。

 あ、おねえちゃんばかりではありません。もう将来のないあなただって、けっして希望を捨ててはいけません。今日は元日です。世界平和と消費税廃止の実現を祈って、昼間から一杯やろうではありませんか。

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