-石炭の袋が届いているよ。
-えっ? 石炭の……?
それがこれである。
なるほど COAL SACK とある。つい先頃石炭に関係する仕事をしたばかりだから、ぼくは石炭のサンプル入りの袋かしらと思った(ほんとうである)。しかし、なぜ?
落ち着いて封筒をよく見ると、出版社の名前なのであった。新刊書とは無縁のぼくは、最近の出版事情にはまるで疎く、すぐには理解できなかったのだ。
恐る恐る開封してみると、石炭のかわりに入っていたのは……

ああ、太田さんがおっしゃっていたのはこの本だったか、と了解した。高橋和巳の本が出版されるから送ってあげる、とメールをいただいていたのである。
ソフトカバーの本を予想していたけれど、ハードカバーの立派な造りである。編者のおひとり太田代志朗さん秘蔵の写真もいくつか収められている。
太田さんは、学科はちがうけれど同じ学部の先輩である。ぼくみたいなボンクラな後輩にはもったいない贈り物に、恐縮するやら感謝するやら。どうもありがとうございます。
目次を拝見したら『散華』の文字をみつけ、いっぺんに昔のある情景がよみがえってきた。ぼくが最初に読んだのが『散華』で、それを勧めたのは現在のわが大阪無給通信員であった。
-これ、読んでみないか。
当時のぼくは授業とはまったく関係のない、夢野久作から中国人もあまり知らない清朝花柳小説の翻訳まで、でたらめに読みあさっていた。いわゆる純文学というのが苦手で、「小説に純も不純もあるものか、ばかやろう」と敵視さえしていた覚えがある。
生真面目な大阪通信員の勧めてくれた『散華』は、正直いって、ぼくにはあまり合わなかったと思う。その後だんだんわかってきたことだが、高橋和巳の小説に大衆小説風のおもしろさを求めるのは土台無理な話で、まずふつうの読者なら陰々滅々たる気分になること請け合いである。
ぼくが参ったのは『わが解体』である。文章と内容とが緊張感をもってみごとに一致し、一切無駄のない完璧な散文だと思った。一読して鋭利な刃物でスパッと切られたような気分になるのだが、刃はなによりもまず作者自身に向けられていて、みずからの退路をすべて断ってしまったように見える。それゆえに『わが解体』なのだろう。
ぼくは決して高橋和巳の熱心な読者とはいえない。もちろんいくつかの作品は読んだけれど、本棚にはまだ未読の本が何冊も眠っている。読もうとして手を伸ばしかけては躊躇するということが、ここ数十年もつづいているのだ。読む前から気が重くなるのである。
ここで『憂鬱なる党派』の最後を引用してみよう。
ああ、何もかも、もう遅い。もう遅すぎる。乗りおくれた船員が見送る船の煙のように、最後の夢すらが、愛もなく終ってしまった肉体の波のうねりの上に、拡がり、拡散し、そして消えてゆくのを、そのとき千代ははっきりと見た。
多くを読んでいないぼくには断言できないけれど、絶対に happy ending になどするものか、という強い意志さえ感じるのである。この長編に最後までつきあってきた読者は、それこそ茫然として岸壁に立ちつくすような気分に襲われる。
『わが解体』に胸を突かれた読者のひとりとしては、いかに気が重くとも、本棚に残るいくつかの小説をきっと読破せねばなるまい。そう思いつづけているうちに、いつの間にか歳を取ってしまった。しかしもう遅すぎるということはないだろう。
太田さんはじめ多くの方々のご努力の結晶である『高橋和巳の文学と思想』、必ず近いうちに読ませていただくことをお約束したい。
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