Daily Oregraph: 裏庭画報 ナナカマド始末記
に三日どころか十日以上も放っておいたナナカマドの枝を始末した。たいした量ではないように見えるかもしれないが、たっぷり一時間半以上はかかったのである。
この束を背負い、本を読みながら道を歩けば、気分は二宮金次郎。どこぞの校庭にぼくの銅像が建つかもしれない、というのは時代錯誤の妄想に過ぎず、「まあ、あのお爺さん、気の毒に頭がちょっと……」といわれるのがオチだろう。残念。
トマス・ハーディの傑作『日陰者ジュード』の主人公ジュードは、おばさんの家に厄介になりながら、(細かいところまでは忘れたけれど)たしか馬車でパンを配達していた。向学心に燃えていた彼は、馬車で移動する途中も本を開いて学問に励んだから、イギリス版二宮金次郎といっていいだろう。
ジュードがその後とんとん拍子に出世したという話なら、そこいらに転がっている安手の自己啓発本とたいして変らぬが、本物の文学者の目はそれほど甘くはない。
並の大学生も及ばぬほどラテン語が上達しても、貧しい下層階級に属する彼は念願だった大学入学を果たせず、結婚にも破れ、「世間」と闘って満身創痍になった挙句、悲惨な死を迎える。
どうにも救いのない小説だが、世間に広く受け入れられている制度や道徳が、実は人を不幸にする不合理を含んでいるという事実を読者に突きつけたから、当時ハーディは保守派から囂々たる非難を浴びたのであった。彼が小説の筆を折った一因ともいわれている。
修身はものごとの半面しか教えてくれない。この小説は、世の中の別の半面を教えてくれるという点で、文学の可能性のひとつを示したものだと思う。たぶん文科省推薦にはなるまいが……(笑)
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