京都足棒日記 羅城門ここにあり
もちろん門は影も形もないのだが、石標の隣にはお地蔵さんが祀ってある。この地蔵さん、別に羅城門とセットというわけではないけれど、東寺-空海-羅城門とは縁があって、
案内板によると、824年東寺の空海と西寺の守敏が勅命によって雨乞いを競い、破れた守敏は恨みに思って羅城門近くで空海を待ち伏せし、矢を射たという。すると地蔵菩薩の化身が身代りとなって矢を受けたところから、「矢取地蔵尊」として祀られるようになったのだそうな。
いかに空海さんといえども、雨を降らせる法力などあるわけがないから(失礼)、たまたま守敏さんはタイミングが悪くて損をしたのだろう。結局大秀才にして政治力にも恵まれた空海さんの東寺は今に残り、坊主にもあるまじく空海暗殺をはかった守敏さんの西寺は消滅してしまった。なんとなく哀れを誘う話である。
現在のお堂は明治に建てられたものだが、地蔵さんひとつ取っても、京都らしく由来話はとんでもなく古い。
えっ、これが? と思うほどあっけらかんとした石碑が一柱、こじんまりした公園に立っている。
裏側へ回ってみると「唐橋羅城門公園」とあり、いかに小規模の公園であるかよくわかる。
ほんとに羅城門なんてあったのかな、と疑いたくもなるが、
この門は朱雀大路の南端に位置したというのだが、朱雀大路といえば、現在の千本通り(こちらの記事の写真1~2枚目)である。
では朱雀大路の名残を探ってみよう。
東西を走る大通りは九条通りである(手前が東)。写真左には南北方向の「新千本」通りの標識が見える。
めざす「旧千本」通りは、これより一本手前(東寄り)の道路で、
九条通りの北側から見ると、とても朱雀大路の延長とは思われぬ小路である。昔はこんなじゃなかったんだが……という資格はないけれど(笑)、だれしも今昔の感に打たれることはまちがいない。
さて羅城門跡と旧千本通りを見物したからには、西寺跡へ向うのは自然の流れだが、この日はここまでとし、26日の朝に出直した。
途中意外に思ったのは住宅地の間に残る農地だが、考えてみればこのあたりは九条ネギの産地だろうから、ふしぎはないのかもしれない。
唐橋西寺公園。羅城門公園よりかなり広い。真ん中の地面が盛り上がったところは、西寺講堂跡である。
ここにかつて東寺と同じ規模の寺院があったとは、ちょっと想像しにくい。
講堂のあった土壇には「史蹟 西寺趾」の石碑がある。羅城門跡同様、あっさりしたものである。
こうして羅城門から西寺の跡を巡り、しみじみ世の無常を味わったのだが、21世紀のいまも羅城門は堂々と偉容を誇っている。
次は羅城門……羅城門跡ではない。バスを降りれば、目の前にはまちがいなく大門がそびえているはずだ。
(つづく)
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