京都足棒日記 六条通突キ抜ケ編 (2)
前回同様略図を示しておく。おおむね左右対称という、実に美しいルート(笑)である。
いきなり本堂(?)というふしぎなお寺からは、盛んに太鼓の音が聞こえてくる。とても21世紀とは思われぬ雰囲気が漂っていた。
別にのぞき見をしたわけではなく、開けっ放しだから自然に目に入ったのである。お坊さんがドンドン太鼓を打ち鳴らしながら般若心経を唱えるそばには、ご祈祷を受けるご婦人が立っていた。ご家族の病気でお悩みなのかもしれない。
このお寺は初めて拝見したのだが、千年以上の歴史を誇る古刹である。因幡薬師という名のとおり、ご本尊は薬師如来、それを天徳三年(西暦 959年)橘行平が因幡の国の海中より引き上げて、自宅に建てた因幡堂に安置したのだそうな。
平等寺の名づけ親は高倉天皇。前回京都を訪れたとき、ぼくは高倉天皇陵を拝見してきたので、これもなにかの縁であろうと思った。仏縁やら高倉天皇さんのご縁やら、こう縁だらけでは、なんだかクモの巣に絡め取られたような心地がする。
ここには賓頭盧(びんずる)さんもチョコンと坐っており、ぼくもつい頭をなでてしまった。そうせずにはいられない、一種の引力を感じたのである。
しかし頭がツルツルになるのは困るから(笑)、心ばかりのお賽銭を上げておいた。どんなご利益があるのやら。
10時31分、六条通りに到着。写真は西から東を見たところで、画面左が今歩いてきた東洞院通りである。
いかにも道路を拡幅したという形跡が残っているけれど、いかなるわけがあったのか、広いのはここだけ。
この通りを東へ向ってもいいのだが、本日は旧六条通りを歩くのが目的のひとつだから、ふたたび左折して、もと来た道へ戻ることにした。
旧六条通りの入口は六条通りからすぐ、黒い車の停まっている角を右に入る。
やがて見えてきたのは高倉幼稚園(高倉通六条上る)。ここもまっすぐ進む。
小路を抜けると、長講堂にぶつかる。初めて目にしたのだが、元六條御所というから、なんとなく由緒がありそうだ。
こういう案内板は、歩いているときに読んでもどうせ頭に入らないから、ぜひ撮影しておくべきである。
なになに……「もとは六条西洞院にあったが」とあるから、天使突抜四丁目の角、六条郵便局のすぐ近所ではないか。そこからここまでやって来たというのはおもしろい。
長宗我部盛親さんとはお付き合いがないけれど、このお寺は浄土宗だから法然さん、さっき見たばかりの長講堂は西山浄土宗で、やはり法然さんの流れを汲む。
ぼくはバチ当たりの男だが、これは法然さんのお導きと考えるしかなさそうだ。もはや仏縁でがんじがらめである。
さてこのあたりの地名は本塩竃(もとしおがま)町である。なんで京都に塩竃が? という疑問に答えられるほどには、いつの間にかぼくも成長していた(笑)。
この日の散歩コース最終目的地である六条河原院跡について以前書いた記事があるから、ぜひご一読いただきたい。疑問が解決すると思う。
「女人守護 いちひめ神社」があったのでおじゃましようとしたら、
このとおり工事中で、仮の通路上でも工事関係者が忙しそうにしておられたから遠慮しておいた。ぼくには仏縁はあっても女縁はないらしいが、どうせもうすぐ頭が賓頭盧さんみたいになるんだろうから、もうどうでもよろしい。
画面右が河原町通り。このあたりを河原町正面という。ここは河原町通りを渡って東(画面では右)へ向う。
煙草屋さんの店先の灰皿をお借りして一服したのち、高瀬川沿いに北上する。
このあたり、なかなか落ち着いて感じのいい場所である。
10時59分。ほら、見えてきた。河原院跡の目印となる榎である。
散歩コースの終点としては、まことに気が利いていると自慢したくなるけれど、結局は奇人源融の魅力に引かれてやって来たのである。これまた縁なるかな。
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