Kyotorogy 2014: 銀閣寺~蹴上
奈良行きの前日、つまり9月22日、朝一番で用事をすませたぼくは、市バス一日券を活用すべく、特に行きたい場所があったわけではないけれど、たまたまやってきた銀閣寺道行きのバスに乗り込んだ。
21日までは多忙をきわめ、やっとこの日に余裕ができたこともある。観光目的ではなかったし、またそんな気分にもなれなかったとはいえ、一日中部屋にこもっていては気が腐る。幸い天気もよし、少し歩いてやろうと思ったのである。
たいして内容のあることを書くわけではないから、どうか散歩につきあうような気分でお読みいただければ幸いである。
学生時代には銀閣寺付近にまでは来たことはあるけれど、お寺には足を伸ばしていない。東京から友人が訪ねて来なければ清水寺にも行かなかったかもしれないほど、当時は資金も行動範囲もかぎられていたのである。
その清水ほどではないけれど、銀閣寺橋まで来ると参道にはこの人の波。へえ、銀閣寺も人気があるんだなあ、とおおいに感心した。同時にお寺を見学しようという意欲は減退し、さてどないしましょと迷ったとき、橋のたもとに「哲学の道」の案内板をみつけて、この日の方針が定まった。
せっかくここまで来たのだから、とりあえず銀閣寺までは行って、その後哲学の道を北から南へ向かって歩こうという趣向である。
湯豆腐屋が氷を売るほどの暑さである。しかも観光客は多い。こんな場所は早々に退散するにかぎると思ったのだ。
ともかく山門はくぐろう。
門をくぐればすぐに拝観受付がある。別にケチったわけではないが、さほど興味もなし、ここで失敬することにした。まあ、とりあえず銀閣寺に来たことはまちがいないわけだ。
銀閣寺橋から琵琶湖疎水分線に沿って、哲学の道をてくてく歩きはじめる。ここは上品でいい道だ。全区間ではないけれど、昔一二度ほど歩いた記憶がある。木陰が多くて涼しいこともありがたい。
観光客も三々五々散策を楽しんでいるが、ぞろぞろ団体で押し寄せるわけではないから、京都に来て以来はじめてノンビリした気分になれた。ときどきベンチに腰かけて、持参のミネラルウォーターをちびちび飲んだのは、異郷で行き倒れになりたくなかったからである。
途中でみかけた白い彼岸花。やっと花に目を留める余裕ができたらしい。
やがて熊野若王子(にゃくおうじ)神社に到着。この神社を訪れるのははじめてである。
「哲学の道」というのは、ふつう南はこの神社から北は銀閣寺橋まで(正確には銀閣寺バス停付近まで)の道をいうらしい。全区間を歩いて、まずはめでたい。
「すべての苦難をナギ倒す」という看板には驚いたが、
ご神木であるナギの木に引っかけた洒落なのであった。
ナギというのは初めて見たが、案内板には「京都府内で最も古い梛の大木」で、「樹齢四百有余年と推測」されているとある。また下の写真に見える石橋は、「明暦二年(一六五六年)七月吉良家より寄進されたもの」とも。
境内は割とこじんまりして決して大社ではないが、のんびりとしてぼく好みの神社であった。
後白河法王が永暦元年(1160)に熊野権現を勧請したのが始まりで、熊野神社・新熊野(いまくまの)神社とともに京都三熊野のひとつに数えられる。(こちらのサイトより引用)
神社の休憩所で一服。緑陰がありがたく、おおいに助かった。
若王子橋。「疎水分線」の文字が見える。
橋を渡って哲学の道を後にし、なおも歩く。
このすぐ近くには永観堂や南禅寺といった名所もあるのだが、すべて無視してただ歩くだけという、まことに芸のない話である。
やがてふしぎなトンネルに出くわした。なんでも「ねじりまんぼ」というけったいな愛称で呼ばれているらしい。
よほどトンネルの向こうへ行ってみようかとも思ったのだが……
気温表示板の数字を見てヘナヘナとなってしまった。道理で暑いはずである。
ペットボトルの水も底をつきかけたし、ただちに撤退を決意したことは申し上げるまでもない。
近くにバス停が見あたらなかったので、この際やむをえないから地下鉄蹴上駅に逃げ込むことにした。蹴上でお手上げというバカバカしい一席。
烏丸御池で地下鉄を下車し、バスに乗る。
なにを売っているんだろうと見れば、時刻はちょうど正午、弁当が飛ぶように売れていた。弁当ひとつ250円から。この値段ならコンビニ前に店開きしても十分売れるはずだ。
二万円の天麩羅を食う連中にはわかるまいが、みなさん毎日お店でランチを食べるような余裕などないのである。第一このぼくからして、この日の散歩に要した費用は、一日バス券を別にすれば、ミネラルウォーターと地下鉄代を合わせてわずか340円也、低予算で京都見物を楽しもうという貧乏人の意地を見せたつもりである。
消費税増税以来、むりやり株価を維持し、いかに取りつくろおうとも、予想どおり不景気は決定的となった。さらに10%に上げようとはとんでもない話であって、瀕死の病人の息の根を止めるようなものであろう。一番の問題は、喜んで殺されたがっている病人の多いことだ。
さらになけなしの年金を株につぎこもうなどとは天人ともに赦さざる悪行であって、若王子神社の神様には悪人ばらをなぎ倒していただきたいところである。お賽銭上げたでしょう。
ああ、哲学の道を歩きながら、そういうことを考えるべきであったか。
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Comments
哲学の道ってのはちょいと憧れているんですが・・・
未だ足を踏みいれたことがありません。
まあここに限らず京都は殆ど知らないと言っていいほどなのですが、先日京都の美術館を二つ回る機会があって・・・奈良には絶対こんなのは回ってこないぞ・・・なんて感想でした。
Posted by: 三友亭主人 | November 12, 2014 23:16
>三友亭さん
「哲学の道」という名称は、なんとなく気恥ずかしくて使うのがためらわれるけれど、よく整備されていて美しく、散歩には好適なコースですよ。とにかく歩いていて気持のいいことはまちがいありません。おすすめです。
美術館はねえ……空いていればいいんですけど、人気のある出し物(?)だと混み合いますから、ぼくはめったに入ったことがありません。困った性分です。
Posted by: 薄氷堂 | November 13, 2014 09:25