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June 29, 2014

Daily Oregraph: 働く男

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 デッキに立って港の風に吹かれるのは気分がいいものだ。きびきびと働く船員の姿を見るのも悪くない。すがすがしいのである。少なくともろくにわかりもしない本を顔をしかめながら読むよりはずっといい。

 バラストタンクを計測中の彼が右手に持っているのは青いチョークである。水の境目が見やすいように青や赤のチョークを巻尺の裏側に塗るのはよくあることだが、こんな太いのにお目にかかったのは初めてだ。Made in Japan だそうな。

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 こちらはやや偶然芸術に接近していると思うが、いかが?

 とまあ、われながら仕事をしに来ているんだか、ネタ探しをしているんだかわからないけれど、明日からは当分本業である小松菜農家に専念することになりそうだ。

 働く男の姿はカッコいいんだから、だれか農作業中のぼくを撮ってはくれないだろうか? 薄謝進呈(笑)。

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June 28, 2014

Daily Oregraph: 旅は道づれ

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 ひさびさの船上セキュリティ・チェックポイント。本日の担当者はきりっとした顔立ちのいい男である。

 持ち場を離れていたから、おい、横に立ってくれないかと注文をつけたのだが、カメラ目線ではなく、あえて横顔を見せるとはあっぱれ。なかなかの役者でもある。

 さて『瀬戸内海』をやっと読み終えた。最初の予想以上に内省的な文章であったせいか、この本を読み進めるうちに脳味噌を刺激されたらしく、毎晩いろいろな夢を見るようになった。もう忘れかけていたかつての仕事のことや、昔の友人たちが夢に現れるのである。ある意味では読んで疲れる作品であった。

 今日からはイーヴリン・ウォー(Evelyn Waugh, 1903-66)の戦前の旅行記をまとめた When the Going Was Good  に取りかかる。うまく日本語にはできないが、辞書に「while the going is good 状況が悪くならないうちに」とあるのは、いわゆる「足元の明るいうちに」に相当し、一字ちがいのこのタイトルはたぶん世界大戦という最悪の事態を迎える前に旅行したことを指すのだと思う。

 こちらは旅行先が日本ではないから、ずっと気楽に読めるんじゃないかと思うけれど、さてどうなりますことやら。

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June 26, 2014

Daily Oregraph: 裏庭画報 シャク

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 シャクは夏を代表する花のひとつである。涼しげな感じがしていい。どことなく深山幽谷の景色を思わせるけれど、背景に板塀がちらりと見えるのはちと情けない。

 一時間ちょっと草むしりをしてから、小松菜の種をまく。こういう作業のあとは、しばらく読書する気分にはなれない。意欲が途切れてしまうのである。

 最初は気楽に読み飛ばすはずだった『瀬戸内海』だが、なかなか先へ進まない。ときどき顔を出す日本や日本人に対する彼の苛立ちに、少々気が重くなるせいもある。もちろんすべて共鳴できるわけではないが、最近はびこっている低レベルの排外主義を思い合わせると、たしかに当たっているなあと納得できる指摘も少なくないのである。

 そんなわけで、すいすいとはかどるのはウィスキーだけ。

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June 24, 2014

Daily Oregraph: 裏庭画報 ギョウジャニンニクの花

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 今年もギョウジャニンニクの花が開いた。しばらく低温がつづいたけれど、例年どおりである。

 特別美しい花とはいえないのだが、ふしぎな魅力がある。ウソだとお思いなら、じっくりごらんあれ。毎年食べずに開花を待つ気持がきっとおわかりいただけるだろう。

 この場所にはいつも二株花をつけるのだが、今年はそのうち一株の茎をうっかり雑草と一緒にむしり取ってしまった。根が残っていれば復活するのかどうか、来年確認したい。

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June 22, 2014

Daily Oregraph: 裏庭画報 ナナカマドの花散るころ

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 細かい白い粉のようなものが散らばっている。ナナカマドの花が散りはじめたのだ。この分だと、秋にはたくさん赤い実がなるかもしれない。

 この場所は木陰になるから、小松菜の育ちがよくない。そのかわり虫食いの被害もほとんどない。毛虫の仲間も日向のほうが棲みやすいのだろうか?

 さて最近海外からの宣伝目的と思われるコメントが相次いだので、スパム防止対策として認証画像表示の設定に変更した。ご面倒をおかけするが、どうかご了承いただきたいと思う。

 楽をして金を儲けようというのはいいとしても、こんなマイナーなブログを利用するとはバカな連中である。

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June 20, 2014

Daily Oregraph: 十勝絵日記 牛に見られる

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 6月19日。有刺鉄線の柵がなければいいのにと思いながらカメラを向けると、牛たちが寄ってきた。最初は二頭だったのが、このあとすぐに続々と集まってきた。ものすごい数である。

 みんなじっとぼくを見ている。いたたまれなくなって車に逃げ帰りましたとさ。

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 6月20日。雨の中、帰路につく。

 厚別駅前にて。なんということもない景色なのだが、天気が悪かったせいか、ものさびしげに見えたのである。

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 広尾に行ったからにはこのウィスキー。買いだめしたかったけれど、これしかなかったのは残念。

 となりの本は単なる飾り。昨日も今日も読んではいない。瀬戸内海のかわりに太平洋を見てきたのである。

 え、もう壜の口が開いているじゃないかって? あたりまえじゃないの(笑)。

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June 18, 2014

Daily Oregraph: オシヤをひとつ

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 少しだけ小松菜を収穫。もちろんもっと大きくはなるのだが、ぼくはこのくらいがうまいと思っている。

 昨年同様虫食いの跡があるけれど、今年は犯人を発見した。二匹の毛虫である。一匹はは4~5センチ、もう一匹はその倍くらい。気の毒ではあるが退治したことは申し上げるまでもない。

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 ダイコンの葉が、いよいよそれらしくなってきた。今思えば、もっと土を深く耕すべきであったが、根っこがだめでも葉っぱがあるさ。

 さて本日『瀬戸内海』から拾ったエピソードをひとつご紹介しよう。例によって、翻訳のまずいところはご勘弁いただきたい。

 ある観光の島の売店に入ったドナルド・リチー氏、

 のどが渇いていたので、(かき氷のほかに)冷たい水も所望した。「オヒヤ」ということばを使ったのだが、私の東京弁では「オシヤ」になる。

 聞き慣れないことばを耳にした店の大柄な婦人は、私のほうを向いていった。「何です?」

 「オシヤをお願いします」と、私はていねいにいった。大柄な係の女がこわかったのである。

 女は気分を害したコンシェルジェみたいに突っ立って、しばらくは無言で私をみつめていたが、やがて「ああ、水が欲しいのね」といった。彼女のいった「ミズ」は、どんな水にもあてはまることばで、特に冷たい水を指すわけではない。

 「冷たい水のことですが」と、私は力なくいった。

 「それならツメタイミズが欲しかったのね」と、彼女はにこりともせずにいった。

 「ツメタイミズのことをオシヤともいうじゃありませんか」

 「それをいうならオヒヤですよ」

 彼女は私のことを怒っているのだろうか、いや、ひょっとしたら私が日本語を話すこと自体が気に入らないのだろうか。 外国人が日本語を話すと気を悪くする日本人も中にはいるし、うますぎると誰もがいやな顔をする。あるいは私の東京弁が、この眠ったような小島に暮らす彼女に一撃を与えたのかもしれない。

 彼女は私をにらみつけていった。「ここではミズというのよ」

 「そのようですね」私はおとなしくそういった。

 彼女はぬるい水道の水のコップを手にして立ち止まると、ゆっくりと意味ありげにいった。「日本ではね、ミズというの」


 さてこの場合売店のおばさんは無礼である。礼儀をわきまえない点は十分非難に値する。しかしリチー氏もあまりほめられたものではないだろう。日本人の中にただひとりという立場のせいもあるのだろうが、やや自意識過剰のようにも思われる。

 東京弁ではしばしば「ヒ」を「シ」と発音することは、ぼくも知識としては知っている。だが、いきなり「オシヤ」といわれては、たいていの日本人は一瞬ポカンとしてしまうにちがいない。第一ふつうの東京人なら「オヒヤ」というだろうし、かりに三代つづいた江戸っ子だって「オシヤ」が通じなければ、「オヒヤ」といいなおすのがふつうではあるまいか(もしそうでなければ傲慢あるいは無知のそしりは免れまい)。

 それにぼくは個人的にはふだん「オヒヤ」とはいわない(妙に玄人っぽい語感にやや抵抗があるからだ)。ただ「ミズ」とだけいうだろう。「冷たい」かどうかは、季節や気温、あるいは場所(飲食店かどうか、気の利いた家庭かどうか)によっておのずと決まることだから、わざわざいうには及ばない。


 こんなつまらないことから摩擦が生じ、誤解が生まれるといういい見本のような気がする。異文化理解などと口でいうのは簡単だけれど、そうたやすいものではないようだ。

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June 16, 2014

Daily Oregraph: 今日はだれ?

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 雨こそ降らなかったが、今日も冴えない天気であった。気は乗らなかったが、少し草取りをしてから『瀬戸内海』を読む。

 ドナルド・リチー氏は万葉のある歌の舞台を見たさに、瀬戸内海の小島である沙弥島を訪れる。島に住む教師(?)と共に試みたその歌の英訳は、
  
  If his wife were here,
  She would gather for him
  Fresh wild herbs....
  But upon the hills of Samine,
  Have they not already faded?

 例によって、まずい直訳をおまけしておこう。

  男の妻がいたならば
  摘みもしようものを
  みずみずしい野の草は
  狭岑の丘では
  もうしおれてしまっただろうか

 ご本人は英訳の出来栄えにかなりご不満のようだが、詩の翻訳はもともと無理があるのだからしかたないだろう。日本語→英語→日本語→英語……と繰り返していけば、伝言ゲームではないが、原作とは似ても似つかぬものになるにちがいない。

 さてこのままではさっぱり見当もつかなかったが、「沙弥島」で検索すると、元の歌はすぐに判明した。(いったい何用あってかは知らないが)この島を訪れた柿本人麻呂が磯に打ち上げられた溺死者の死体を見て詠んだという次の歌である。
  
  妻もあらば摘みて食(た)げまし沙美(さみ)の山
  野の上(へ)のうはぎ過ぎにけらしや (巻二・二二一)

 「故郷にあって妻と共にいたならうはぎ(ヨメナ)も妻が摘んで食べさせようものを、妻を離れて異境に行き倒れて、もう野のうはぎも若芽の時をすぎてしまったのではないか」というのが中西進先生の解釈である(『万葉の花』より)。

 リチー氏の文章を読むと、この島で難破した敗軍の兵士が戦友の死を看取って埋葬し、この歌を詠んだのちは島で帰郷の日を待ちわびたとあるから、どうも誤解があるらしい。しかしリチー氏によれば、万葉集中瀬戸内海が登場するのはこの歌のみらしく(※)、それゆえにわざわざ小舟を雇って島に上陸したという熱心さには頭が下がる。

 探求心のかたまりであるリチー氏は、あちこちの島で住民とふれ合い、時に珍妙な会話を交わすのだが、それも日本語が達者なればこそである。しかし外国人と見れば(どこの国の人であっても)、日本語は絶対に通じないし、とにかく英語だと思いこんでいる人も少なくない。

 本日読んだところでは、小さなこどもが英語力を試そうと、

  Who are you today?

 これはなかなかおもしろい表現である。どう答えたらいいのだろうか(笑)。

【6月17日追記】※原文はこうである。

 私が沙弥島に来たかったのは、千年以上も昔に、万葉集四千首のうちにひとつだけ収められた瀬戸内海に関する歌がここで書かれたからである(後略)。

 本日気づいたのだが、この20頁ほどあとには、同じく瀬戸内海に面する「鞆(の浦)」が万葉集に登場することにもふれているので、作者がなぜこう書いたのかはわからない。一時的な思いちがいではないだろうか。

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June 13, 2014

Daily Oregraph: 裏庭画報 雨の合間に

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 またしても雨。これではまるで梅雨である。

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 午後から雨がやんだので、畑へ行ってみると、チゴユリが咲きそろっていた。数も少し増えているようで、完全に根づいたようだ。

 この花は雨模様の日にはいっそう引き立って見えると思う。薄暗い畳の部屋にひっそりと座っている、愁いを含んだ細身の美人を思わせるからだ。

 え、そうは見えないって? だめだめ、人間なによりも想像力が必要なんだから。

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 シコタンキンポウゲ。小さい虫がへばりついているけれど、追い払わずにシャッターを切った。リアリズムね。

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 ナナカマドの花。花が咲いたからには、今年も真っ赤な実がなるだろう。この木もかなりの大木になったので、いずれは切り倒す必要があるかもしれない。

 とまあ、ずいぶんノンキなようだが、さにあらず。雨が降りつづいたせいか、雑草が伸び放題になっていたので、旦那様みずから少し草むしりをしたのでありました。

 もちろんとても取り切れるものではない。除草剤という近代兵器を持たずにゲリラに立ち向かおうというのが土台無理な話なのだから、わずか30分ほどで音を上げてしまった。

 予報では明日も雨。やれやれ、頭が痛い。

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June 11, 2014

Daily Oregraph: なににたとへん

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 また小雨が降っている。こう天気が悪くてはやりきれない。

 さきほどちょっとだけ裏の畑に行ってみたら、小松菜がやっとそれらしくなったのはうれしいけれど、ここ数日のうちに雑草がはびこり、ゲリラ兵に取り囲まれた陣地のようになってしまっていた。こりゃあ草取りが大変だぞ。

 とても写真なんぞ撮る気にはなれないので、先日撮影したカジカの顔でもごらんいただこう。北海道弁でいう「みったくない」顔をしているが、実にいいダシが出る。また、こいつの肝は絶品である。

 さて『ピカデリー・ジム』につづいて読みはじめたのがドナルド・リチー(Donald Richie, 1924-2013 映画批評家)の The Inland Sea (瀬戸内海)。1971年初版の紀行文である。この本は二十年ほど前に東京か札幌で買ったもので、やっと積ん読から昇格したことになる。

 まだ読みはじめたばかりだが、当時の日本の文明批評とも受け取れる内容である。じっくりと味わうべきしみじみとした文章は、映画でいえば松竹大船調を思わせる。

 この本の巻頭に掲げられた詩をご紹介しよう。

    I hear they are building a bridge
   To the island of Tsu.
   Alas...
   To what now
   Shall I compare myself?

        ―an old Japanese poem

 はてな、元の歌はなんだろうか? というのが本日のテーマ。翻訳された詩を復元するのは、案外むずかしいものだ。あえて直訳してみると、

   津の島に
   橋を架けているという。
   ああ、
   今となっては
   わが身をなににたとえようか。

 しかしこれでは和歌にはならないので、少し考えてみたら、後半はすんなり思い浮かんだ。「今はわが身をなににたとへん」でまずまちがいないだろう。問題は前半である。

 ぼくは古典の素養がないからネット検索してみると、

  
難波なる長柄の橋もつくるなり今は我が身を何にたとへむ

という古今集の歌がヒットした。古くなった長柄の橋を新しく架けかえるというが、これからは老いたわが身をなににたとえたらいいのか、というほどの意味らしい。

 しかし後半は大正解だったが、津の島云々と元の歌とは微妙にちがう。「津」というのは「難波津」の「津」だろうか? ぼくの参照したサイトには、親切なことに関連する歌も引用されていた(ありがたいことだ。この場を借りてお礼申し上げたい)。


  世の中にふりぬる物は津の国の
長柄の橋とわれとなりけり 

 どうやら「津」は摂津の「津」らしいから、難波津と無関係ではないようだ。「長柄」は「ながらえる」にかけているようだ。

 リチーさんがどうしてこの歌を選んだのかは想像がつく。当時本四架橋工事の着工が話題にのぼっていたからだろう。まだ30頁ほどしか読んでいないが、新しい波の到来によって急速に失われつつある古き日本の美点に対する愛惜の念が強く感じられるのである。

 リチーさんが瀬戸内海を巡ってからすでに半世紀近く、もはや古きよき日本などどこへやら、一部の企業だけでなく政府までブラックになりつつある今、老いたわが身をなににたとへん。

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June 09, 2014

Daily Oregraph: 裏庭画報 チゴユリ

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 ここ数日天気が悪く、今日も雨がポツリポツリと降っている。小やみになったところで畑を見に行くと、ぼくの好きなチゴユリが開花していた。まだ開いたばかりのようである。

 『ピカデリー・ジム』は昨夜読み終えた。恋あり冒険あり笑いあり人情味あり、ハラハラドキドキと楽しく読ませてくれるから、列車の旅などのお供には最適の娯楽小説といっていいだろう。

 語ると必ずネタばれになってしまうから、ストーリーについては触れないでおくが、ひとことでいえば「なりすまし」の喜劇で、それもかなりひねりが効いている。英米間の文化摩擦なども滑稽に描かれているし、ショーペンハウエルに読みふける女探偵など、へんてこな脇役の存在もまたおもしろい。ハッピー・エンディングで後味もよく、なるほどウッドハウスは人気があるわけだと納得した。

 偶然が都合よく重なりすぎるのは作品の性格上しかたのないところで、文句をつけるのはヤボというものだろう。奇想湧くがごとくとでもいえばいいのか、よくまあこんな途方もない話を考えつくものだと感心するほかない。

 アマゾンと楽天で検索してみたが、残念ながら翻訳は出ていないようだ(クリケットを知らないと翻訳できないと思うよ(笑))。しかし原作はインターネットで全文入手可能のはずである。おひまならチャレンジしてみてはいかが?

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June 06, 2014

Daily Oregraph: 裏庭画報 野菜観察

 ネタがないから、たまには野菜の観察でもしてみよう。

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  5月3日に種をまいた小松菜。一ヶ月以上もたつのにまだこれほどの背丈だから、いかに釧路が低温であるかおわかりいただけると思う。

 しかしやっと少し暖かくなってきたので、これからはすくすく成長するだろう。いや、してもらわなくては困る。

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 5月9日にまいたダイコン。やっと葉のかたちがそれらしくなってきた。みごと食べられるようになるかどうかはまだわからない。

 褐色の小片がたくさん散らばっているのは、エゾヤマザクラの花のなれの果てである。やっかいな雑草も目立ちはじめた。

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 同じく5月9日にまいたサヤエンドウ。去年はすっかり虫に食い荒らされたが、今年はいかがあいなることか。

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June 05, 2014

Daily Oregraph: 裏庭画報 Black and White

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 Black and White といってもモノクロ写真でもなければウィスキーの銘柄でもなく、単純に黒と白。

 まずはクロユリ。黒といっても紫がかっているから、暗紫色とでもいえばいいのだろうか。今年もまた少し数が増えたように思う。

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 白はコンロンソウ。これなどは雑草のようなものだが、花を見るととても引っこ抜く気にはなれず、そのままにしているうちに、あちこちにはびこっている。

 一日中霧がかかり、朝のうちはボーボーとさかんに船の汽笛が鳴っていた。その音を聞きながら野菜に水をやったり、草むしりをしたり、(めずらしくも!)部屋の掃除をしたり……あっという間に半日が過ぎてしまった。

 あとは焼酎を浴びるだけ(「山谷ブルース」をご存じかな?)。あ、本もちょっぴり読むつもりだから、軽蔑しないでね(笑)。

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June 03, 2014

Daily Oregraph: わたしはあなた

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 北海道は各地では猛暑がつづいているけれど、庶民の避暑地として知られる釧路は別天地である。日中は「暖かい」といった程度だし、夜になるととたんにひんやりしてくる。ありがたいことだ。

 さて気楽に読み飛ばすつもりだった『ピカデリー・ジム』だが、おもしろさをじっくり味わうため、結局ていねいに読むことになり、本日は文法のおさらいまでしてしまった(笑)。

 最近ぼくの評判もあまり芳しくないようだから、たまには基本に立ち帰って、まじめにやってみようか。


 You may look like him, but you aren't him - he? - him? - no, 'he' is right.

 結論から言えば、このセリフどおり、文法的には 'You aren't he.' が正しい。

 この場合 'he' は目的語ではなく主格補語であり、文法の原則では「be動詞の補語としては人称代名詞の主格が使われる」からである。しかし現実には目的格の 'him' を使うことのほうが多いから、ネイティブ・スピーカーでも迷うことがあるというわけだ。

 かたくなに原則をふりかざせば時としてイヤなやつだと思われる恐れもあるから、どっちでもいいというのが穏当なところだろう。しかし原則は原則として心得ておくべきかと思う。たまに本来正しい表現を誤りだと思い込んでいる人がいるからだ(だからこの種の問題の場合、ネイティブのいうことなら常に信頼できるとはかぎらないのは日本語も同じ)。


 主格補語とか目的語なんて忘れちゃったという方のために……

  I am you.  わたしはあなたよ。

 この場合、「わたし=あなた」で 'you' は主格補語(人称代名詞の主格)。

  I ate you.  あなたを食べたわ。

 こちらは「わたし≠あなた」で 'you' は目的語(人称代名詞の目的格)。

 この理屈さえ理解すれば、もう 'if I were he' か 'if I were him' かなどど迷うことはない(文法的には前者が正解。ただし実際には後者も使われるのは上述のとおり)。

 ぼくの挙げた例文が不自然だと思う方もいらっしゃるだろう。しかし熱烈に愛し合うもの同士なら、わたしがあなただったり、食べてしまったりということもあるにちがいない(笑)。

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June 01, 2014

Daily Oregraph: マスマス……

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 どんな小説も四分の一も読めば「マスマスよみやすく」なるものだが(笑)、ピカデリー・ジム君はおもしろいけれどなかなか手ごわい。

 最初にひっかかったのはクリケットの試合の描写。辞書をひきまくったけれど、定義に用いられている用語自体がさっぱりわからないのだから、迷路にはまりこんだようなものである。なんとも複雑な競技というしかない。

 しかし登場人物であるアメリカ人にもクリケットはまるで理解できないという設定だから、ぼくがわからなくても恥にはなるまいと考えて、その場面は適当に読み飛ばした。どうせ量子力学とクリケットには一生縁はあるまい。

 次にひっかかったのがこちら。

 as rocky and ding-basted as stig tossed full of doodle-gammon

 たぶんとんでもなくみじめな状況の形容なのだろうが、正確なところはさっぱりわからない。第一 'stig' なんて単語は見たことがない。ネット検索してみたら、ある人のサイトに、「意味はよくわからないが、上等のワインを舌で転がして味わうように味わうべき表現である」てなことが書かれていた。

 たとえば「オッペケペーのペーポッポ」といえば、意味は不明でも、日本人ならなんとなく感じがわかるけれど、それに近いものだろうか。あるいは『坊ちゃん』に登場する「(前略)わんわん鳴けば犬も同然な奴」という表現にやや似ているのかもしれない。

 いずれにしても、英語国民がわからんというのだから、ぼくがわからなくたっていいということにしなければ先へ進めない。しかし19世紀の文章のほうがわかりやすいというのも困ったものである。

 もちろんわからないことばかりではない。ひどい二日酔いなのに迎え酒をしようというジム君のセリフを歌舞伎調にしてみると、

 おう、酒をくんねえか。なに、たんとはいらねえ。風呂桶に二杯(にへえ)もあればいい。

 グラスが大きくなりました、マスマス飲みたくなりマス。

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