Daily Oregraph: オシヤをひとつ
少しだけ小松菜を収穫。もちろんもっと大きくはなるのだが、ぼくはこのくらいがうまいと思っている。
昨年同様虫食いの跡があるけれど、今年は犯人を発見した。二匹の毛虫である。一匹はは4~5センチ、もう一匹はその倍くらい。気の毒ではあるが退治したことは申し上げるまでもない。
ダイコンの葉が、いよいよそれらしくなってきた。今思えば、もっと土を深く耕すべきであったが、根っこがだめでも葉っぱがあるさ。
さて本日『瀬戸内海』から拾ったエピソードをひとつご紹介しよう。例によって、翻訳のまずいところはご勘弁いただきたい。
ある観光の島の売店に入ったドナルド・リチー氏、
のどが渇いていたので、(かき氷のほかに)冷たい水も所望した。「オヒヤ」ということばを使ったのだが、私の東京弁では「オシヤ」になる。
聞き慣れないことばを耳にした店の大柄な婦人は、私のほうを向いていった。「何です?」
「オシヤをお願いします」と、私はていねいにいった。大柄な係の女がこわかったのである。
女は気分を害したコンシェルジェみたいに突っ立って、しばらくは無言で私をみつめていたが、やがて「ああ、水が欲しいのね」といった。彼女のいった「ミズ」は、どんな水にもあてはまることばで、特に冷たい水を指すわけではない。
「冷たい水のことですが」と、私は力なくいった。
「それならツメタイミズが欲しかったのね」と、彼女はにこりともせずにいった。
「ツメタイミズのことをオシヤともいうじゃありませんか」
「それをいうならオヒヤですよ」
彼女は私のことを怒っているのだろうか、いや、ひょっとしたら私が日本語を話すこと自体が気に入らないのだろうか。 外国人が日本語を話すと気を悪くする日本人も中にはいるし、うますぎると誰もがいやな顔をする。あるいは私の東京弁が、この眠ったような小島に暮らす彼女に一撃を与えたのかもしれない。
彼女は私をにらみつけていった。「ここではミズというのよ」
「そのようですね」私はおとなしくそういった。
彼女はぬるい水道の水のコップを手にして立ち止まると、ゆっくりと意味ありげにいった。「日本ではね、ミズというの」
さてこの場合売店のおばさんは無礼である。礼儀をわきまえない点は十分非難に値する。しかしリチー氏もあまりほめられたものではないだろう。日本人の中にただひとりという立場のせいもあるのだろうが、やや自意識過剰のようにも思われる。
東京弁ではしばしば「ヒ」を「シ」と発音することは、ぼくも知識としては知っている。だが、いきなり「オシヤ」といわれては、たいていの日本人は一瞬ポカンとしてしまうにちがいない。第一ふつうの東京人なら「オヒヤ」というだろうし、かりに三代つづいた江戸っ子だって「オシヤ」が通じなければ、「オヒヤ」といいなおすのがふつうではあるまいか(もしそうでなければ傲慢あるいは無知のそしりは免れまい)。
それにぼくは個人的にはふだん「オヒヤ」とはいわない(妙に玄人っぽい語感にやや抵抗があるからだ)。ただ「ミズ」とだけいうだろう。「冷たい」かどうかは、季節や気温、あるいは場所(飲食店かどうか、気の利いた家庭かどうか)によっておのずと決まることだから、わざわざいうには及ばない。
こんなつまらないことから摩擦が生じ、誤解が生まれるといういい見本のような気がする。異文化理解などと口でいうのは簡単だけれど、そうたやすいものではないようだ。
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Comments
お久しぶりです。中部圏に住んでいますが、春先の小松菜が瑞々しくかつ大きく成長したのに比べ、今、畑にある小松菜はどうもあまり芳しくありません。水菜に至っては、ほとんど大きくもなりません…その代りに、ズッキーニとキュウリが毎日食卓に上っています。つくづく日本は広いなと思います。
東京弁も「眠ったような小島」の言葉もどちらも日本語。そういえば、私の住むところでは「赤い」というとき、真ん中の「か」が高いアクセントになり、標準語のアクセントで発音するにはエネルギーがいります。
ところで、春先の立派な小松菜は、毎朝グリーンスムージーにして飲みました。
Posted by: 聖母の鏡 | June 19, 2014 00:50
>聖母の鏡さん
こちらは日照不足かつ低温がつづき、なかなか野菜が成長しません。でも小松菜はこのくらいになれば十分食べられますね。
最近ではTVの影響で関西弁にもそれほど違和感がありませんし、アクセントの位置のちがいは、それほど気になさる必要はないかと思います。
しかし「オシヤ」はちょっと(笑)。売店のおばさんはたしかにつっけんどんで無礼ですが、重ねて「オシヤ」といわれたら、なんだか馬鹿にされたような気持になった可能性はあると思いますよ。
リチーさんに悪気はないにしても、ことばの使い方としては明らかに不適切です。日本通であるがゆえに東京弁(江戸弁?)なんかを使ったのが悲劇の原因ですね。
Posted by: 薄氷堂 | June 19, 2014 17:48
「ひ」が「し」になってしまう感覚は、私も東北の人間なのでよく分かります。私の名前が「〇〇彦」なので、周囲の大人の多くは私のことを「〇〇しこ」と呼んでいました。
ただ、それは音声学上の聞こえの問題であって、その大人たちはみんな「○○ひこ」と言おうとして、結果としては「○○しこ」となってしまっていたんですね。はじめから「し」と言おうとして言った「し」と「ひ」と言おうとして言った「し」は微妙ですが違いがあります。ですから東北の人間である私には、それは紛れもなく別な音でした・・・なんて、妙な音韻論を展開してしまいましたが、多分こんな感覚は東京あたりでも一緒だと思うんです。それをリッチさんの様な外国人、或いはその様な発音をしない西日本の人間がが聴いたとき「し」は純然たる「し」となり・・・なんて、自分じゃ結論の出せない無駄な妄想にふけってしまいました。
それにしても・・・「私はていねいにいった。大柄な係の女がこわかったのである。」てのはお笑いですよね。それなら始めから機嫌を損なうようなことしなければよかったのに・・・
Posted by: 三友亭主人 | June 20, 2014 06:57
>三友亭さん
北海道には東北出身者が多いので、ぼくもいろんな音を知っています。ですからおっしゃることはよくわかります。「ひ」とも「し」ともつかぬ独特の音ですよね。
秋田弁の「サシスセソ」などはどれも(特に「シス」)よく似た音ですが、微妙にちがいます(これを正しく発音できるのがぼくの自慢(笑))。
今回引用した場面では、まず外国人がわざわざ非標準的な東京弁を使おうとはまず予想できないだろうこと(売店のおばさんが東京弁を知らなかった可能性も大)、次に三友亭さんご指摘のとおり、リチーさんの発音した「シ」はほとんど純粋な「shi」であったろうことが原因だろうと思います。
外国ではできるだけその国の一般的なことば、標準的な発音を用いるべきという教訓でしょうね。この点では、売店のおばさんは、とても人柄は感心できないけれど、正しいことをいっていると思います。もっとやんわり指摘してあげればよかったのに。
Posted by: 薄氷堂 | June 20, 2014 07:45