Daily Oregraph: 続・お菊虫
七月の終わりを飾るにふさわしい、まことにしょうもない写真である。スランプがつづきすぎて、まともな写真を撮ろうという気力が失せてしまったらしい。
こういうときは無理をせずに、夏向きの肩のこらないお話をしよう。『耳嚢』五の巻より、「菊むしの事」を選んでみた。
お菊虫については以前記事(2011-01-04)を掲載したが、『耳嚢』によると、落語版とはずいぶん話がちがう。以下、ざっと現代文風に(専門外なのだから、細かいツッコミは入れないように(笑))。
寛政七年(1795)頃、摂州岸和田の侍屋敷の井戸から、異様な虫が無数に現れて飛び回るのを捕らえてみれば、玉虫か黄金虫のような形なのだが、虫眼鏡でよく見ると、手を後ろ手にした女の形をしていたという。
素外という俳諧の宗匠が旅の途中で一二匹懐に入れ、江戸にやってきたとき知人に見せたその虫を、わが屋敷に出入りする者もはっきり見たというのである。
津富という宗匠も虫を一匹もらって取っておき、翌年の春、人に見せようとして取り出してみると、虫は蝶に変わって飛んでいったそうな。
この虫の由来はこうだ。
元禄年間青山播磨守が尼崎藩主であったとき、家臣に喜多玄蕃という家禄少なからぬ者がいた。その細君はひどく嫉妬深く、玄蕃が菊という女になにかと目をかけているのに腹を立て、こっそり茶碗の飯の中に針を仕込み、それを菊に運ばせた。
飯を口にした玄蕃が大いに怒ると、「菊の仕業でございますよ」と細君が讒言したので、玄蕃は非情にも菊を縛り上げ、古井戸の中へ頭から逆さまに放りこんで殺してしまった。それを聞いた下女の母(下女奉公していた、菊の母?)も古井戸に身を投げて死んだという。
その後玄蕃の家は廃絶になったそうな。いまでは尼崎の領主も変わって歳月も過ぎ去ったが、去年は百年忌に当たり、菊の怨念が残って奇怪な虫に姿を変えたのであろうか。『播州皿屋敷』という浄瑠璃もあったが、この事件に基づいて作られたものでしょうかと、この話をしてくれた人がいったことである。
ずいぶん奇妙な話である。蝶に変わるのだからサナギなのだろうが、サナギが玉虫や黄金虫に見えるものだろうか? 無数のサナギが井戸から飛び出てきたというのも解せない。『耳嚢』はおもしろい本だが、ときどき無茶なことを書いているから、あまり信用できないしなあ(笑)。
ええい、もうひとつおまけだ。上の話の少し後に見える『於菊虫再談の事』である。
前に記したお菊むしのことについて。御奏者番を勤める土井大炊頭の実兄に当たる、尼崎の当主松平遠江守は、土井家で見せたその虫を殿中にも持参し、それを私も見た。
先に聞いた形とは少しちがって、後ろから見れば女の形に似ているのである。後ろ手に縛られたのではなく、コオロギのひげのようなもので、小枝様のものに繋がれているのであった。略図を左に記しておく。
この記事の最後に、
委細の書記(文書)も土井家より借(り)てみしが、別に記(し)ぬ。
とあるのだが、もしどんな内容なのかわかったらまたご紹介したい。
それにしてもお菊虫の正体、またしてもわからなくなってしまった。図の虫はゴキブリめいて見えるから気味が悪い。ぼくとしてはサナギ説を採りたいのだが……
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