November 30, 2012
November 28, 2012
Daily Oregraph: トラック・システムの話
歴史の本なんぞを開くのは何十年ぶりだが、トムスン先生はなかなかの文章家で、まことにおもしろい。お上のお墨付き検定教科書ではこうはいくまい(笑)。
やはり19世紀の小説を集中的に読んでから歴史を勉強するのは効果的で、ははあ、穀物法とはこういうものだったのか、というふうに、すんなり頭に入ってくる(そのまま抜ける可能性もあるけれど)。
だれもが知っているように、小説には歴史資料としての価値もある。実際『19世紀のイギリス』でも、当時の労働者の悲惨な状況を説明するために、トムスン先生は、ベンジャミン・ディズレイリ(Benjamin Disraeli, 1804-1881)の小説『シビル(Sybil)』(1845年)から、かなり長い文章を引用している。
大急ぎでやっつけたから、まずいところも多々あろうかとは思うが、温かいおおらかな気持で(笑)お読みいただければ幸いである。
ディグズ氏のトミー・ショップ(売店)が店を開けた。芝居のかかった劇場の平土間へ向かうように、押し合いへし合い、先を争い、引っぱり合い、金切り声を上げながら、人々は殺到した。身を守る手すりで隔てた高い席では、大旦那のディグズ氏が、澄ました顔をしてものやわらかな微笑を浮かべ、ペンを耳にはさんで、「まあ落ち着いて、お静かに」と、窮屈な思いをしている客たちに向かって、甘ったるい声で呼びかけるのであった。
難攻不落の要塞ほど頑丈なカウンターの向こうには、その息子である人気者の若旦那ジョウゼフが控えている。この醜い小男は、いばりくさったいやしい根性の持ち主で、その顔には腹黒い意地の悪さが露骨にあらわれていた。そのちぢれのない脂じみた黒い髪、平べったい鼻、ざらざらした赤ら顔、突き出た歯を見れば、父親のおとなしい間のびした顔とはえらいちがいで、まさに羊の皮をかぶった狼そのものであった。
最初の五分間、若旦那は客に向かって悪態をつくばかりで、ときどきカウンターから身を乗り出して、先頭の女たちをぴしゃりと打ったり、娘っこの髪を引っぱったりしていた。
「騒ぐんじゃねえぞ。そっちへ行ってこてんぱんにしてやるからな。なんだと、このあま、耳がねえのか。なんていったんだ? 上等の紅茶をいくらほしいんだって?」とジョウゼフはいった。
「あたしゃ、いりませんよ」
「おめえに上等の紅茶なんて用はねえよ。三オンスも買ってみな、空っけつになっちまうさ。四の五の抜かしたら、叩きのめしてやるぞ。そこのひょろっとしたねえちゃん、だれだか知らねえが、そこから前へ出たら、次の勘定日まで外へ出られねえように傷をつけちまうぞ。くそったれめ、連中を黙らせてやるぜ」というと、ジョウゼフはヤード尺をつかんでカウンターから身を乗り出し、右や左を打つのであった。
「あっ、なにをするんだい!」とひとりの女が叫んだ。「うちの赤ん坊の目が飛び出たじゃないか」
うめき声に近いかすかな声が聞こえた。「どこの赤ん坊がケガをしたって?」と若旦那のジョウゼフは声をやわらげてたずねた。
「あたしの子ですよ」と憤慨した声が答えた。「メアリ・チャーチよ」
「ほう、メアリ・チャーチかい!」と、この悪意に満ちた鬼のような男はいった。「そんならメアリ・チャーチに上等の葛粉(傷の治療に使われた)を半ポンドも当ててやるさ。ガキにはそいつが一番効くんだ。ここを幼年学校とかんちがいして、くそガキどもを連れてくるおめえにもいい薬になるだろうしな」
この場面はけっしておおげさに誇張したものではなく、ディズレイリはほとんど自分の見たままを書いたのだという。このように歴史家も尊重するのだから、文学の威力をバカにしてはいけない。
トミー・ショップ(tommy-shop)というのは、トラック・システム(truck system 現物給与制)の労働者向け売店のことである。この制度では、労働者は現金の代わりに現物または物品引換券を支給されるのだが、トミー・ショップでの購入が前提となる。
もともと低賃金のうえに、ささいなことで難癖をつけられて罰金を徴収され、やっと手にしたわずかの収入も、そっくり売店で回収されるのだから、悪辣にして非人道的な搾取システムというほかない。トラック・システムがやがて違法となったのも当然であろう。
ところでディズレイリは二度も首相を務めた保守党の大物である。こういう小説を書くほどだから、保守派といえども労働者の窮状に対する理解があり、どこぞの国の総理大臣とは人間の格がちがう。まして大阪のカブ頭氏などとは、比較するのも失礼というものだろう。
November 26, 2012
Daily Oregraph: 『月長石』のでどころ
アカガレイ。名前は知っているが、まだ食べたことはない。なるほどヌメリが赤っぽいので、アカガレイというのか。
買い物のついでに外付けの HDD を一台。2TB のものが 9千円を切って買えるのだから、ずいぶん安くなったものだ。現在使用中のもの(1TB)が 3年半を経過したので、ダブルバックアップ体制を取ることにしたのである。HDD はいつ昇天してもおかしくないので、とにかく怖い。
さて The Moonstone についていくつか。
まず Moonstone(ムーンストーンと呼ばれるダイヤ) の陰に moonstone(月長石)ありという、ややこしいお話を、巻末の注記から。
ウォルター・デ・ラ・メア(Walter de la Mare, 1871-1956)の『1860年代(Eighteen Sixties)』によれば、チャールズ・リード(Charles Reade, 1814-1884)は兄(弟?)がインドから持ち帰った moonstone(月長石)を持っており、それが最初にこの小説(The Moonstone)の着想を与えた。
つまりコリンズは moonstone という名を、文字どおり月の石という意味でダイヤにあてたわけである。これでモヤモヤがすっきりした。
なおデ・ラ・メアは、含みの多い詩的な文章を書く人で、どちらかというとじっくり読ませるタイプだと思う。よくイギリスの怪奇小説のアンソロジーに作品が収録されているから、お読みになった方も多いのではないだろうか。
チャールズ・リードはずいぶん有名な作家らしいけれど、ぼくはまだ読んだことがない。批評家筋の評価はあまり高くないらしく、日本で翻訳が出ているという話も聞いたことがない。それならそれで、にわか19世紀愛好家としては(笑)、作品をひとつくらい読まなくちゃいけないと思っている。
『月長石』は最初の「本格的」長編推理小説と呼ばれるだけあって、読者に謎解きの楽しみをたっぷり与えてくれる。しかしなによりも舌を巻くのは、人物描写のたしかさだろう。英文学の古典として残るだけの正当な理由は十分にあると思う。
物語は数人の語り手の手記や登場人物の書簡によって構成されるのだが、もちろんその趣向はコリンズの独創ではない。だがそれぞれの語り手の息づかいまで感じさせる手腕はみごとというほかない。
たとえばよけいなお節介をして、周囲から嫌われる狂信者ミス・クラックなどは、あまりにも真に迫っているので、コリンズの実体験にもとづくものにちがいないと思ったら、「解説」によると、まさにそのとおりであった。実際にお読みになれば、21世紀の東洋にもこの手の人物がいることに思い当たるだろう。加害者(?)の心理に立ち入って書いているところが、作家の腕前である。
また直接の語り手ではないが、長い手紙を残して自殺する薄幸の女性ロザナ・スピアマンもまた忘れられぬ人物のひとりである。彼女の告白の生々しさは息を呑むほどで、その心理描写はとても男性作家の手になるものとは信じられない。この部分だけでもムーンストーン一個分の値打ちはあるにちがいない。
まあ、長くなるからこのへんでやめておくが、この作品は『白衣の女(The Woman in White)』をしのぐ傑作だとぼくは見た。当時の大ベストセラー『白衣の女』はべらぼうにおもしろい小説だが(岩波文庫版の翻訳がある)、ちょっとオカルト趣味が目立ちすぎる。『月長石』にも出だしにややオカルト風味が感じられるけれど、ほんの味つけ程度ですんでいるのはなによりだと思う。
ノンカロリーのご馳走を味わいたければ、たまにウィルキー・コリンズの小説などはいかが?
Daily Oregraph: ムーンストーンよさらば
いとこが畑でとれたいろいろの野菜を母宛に送ってくれた。その中に枝についたままの柿があったので、11月25日の今日の一日一枚とした。
一日中家にこもった甲斐あって、The Moonstone を読了。ノートを取り終わったときには真夜中を過ぎていた。まとまった読書感想文を書くつもりはさらさらないけれど、せっかくだから、明日にでも(いや、もう今日か。ややこしいね)、感じたことをちょっとだけ書いてみたい。
結局これまでに書きためたノートのおさらいはさっぱり進んでいない。いったん小説を読みはじめると、ほかのことに手を出すのがおっくうになるからである。しかしノートばかり貯め込むのはナンセンスだから、このへんで思い切って方針を変える必要がありそうだ。
そこで、次は小説ではなく、
約35年前に買ったまま埃をかぶっていた歴史の本を選んでみた。19世紀の空気になじみかけたところで、ちっとばかり歴史のお勉強をするのも、順序としてはまちがっていないような気がするのである。
とかなんとかいいながら、こんな時間に一杯やっているのが、マジメな受験生とはちがうところだね。
November 24, 2012
Daily Oregraph: 必読書だらけ
今日の一日一枚は紫雲台墓地。あちこち歩いているヒマはないから、どんな場所でも撮れるときに撮るのがプロの道(?)というものである。
本日の読書より。
「ジェニングズ様、ひょっとして『ロビンソン・クルーソー』はご存じで?」
私はこどもの頃読んだことがあると答えた。
「で、それっきり?」と、ベタレッジ。
「それっきり」
ベタレッジはうしろへ数歩退いて私を見たが、その憐れみのこもったふしぎそうな表情には、迷信的な畏れが入りまじっていた。
「こどものとき以来、『ロビンソン・クルーソー』を読んでいないとは」と、彼は私に向かってではなく、ひとりごとをいった。
この場面から察するに、『ロビンソン・クルーソー』とは、たいていのイギリス人にとって、こどもの頃に読む作品である(あった?)らしい。日本人の場合、まったく読んだことのない人のほうが多いんじゃないかと思う。ぼくはそれこそこどもの頃に少年少女向けの翻訳を読んだけれど、たぶん完訳ではなかっただろう。
ベタレッジ老のように、ほとんど聖書がわりに愛読する人もいるほどだから、これはぜひ原作を読まなくちゃいけない。しかし初版は1719年だから18世紀か……う~む、再来年に回すことにしよう(笑)。
19世紀だけでも必読書は山ほどあるのだから、気が遠くなってくる。時間との競争だな。
November 23, 2012
Daily Oregraph: 初雪かき
今朝ははじめての雪かき。もっとも数センチ程度の積雪だから、たいして手間はかからなかった。しかしふつう11月にこれほど積もることはないので、今年の釧路は雪が多いのかもしれない。いやな予感がする。
本日の読書はおおいにはかどり、本文は残すところ100頁を切った。最初はふつうの探偵小説のつもりで読んでいたが、どうしてどうして、その枠にはとてもおさまりきらぬ傑作であることがわかってきた。
古典として残ったものばかりだから当然かもしれないけれど、今年読んだ本の中には一冊のはずれもなかった。そのせいか、だんだん19世紀の小説と心中してもいいような気になってきたので(笑)、来年もすべての時間を19世紀に捧げるつもりである。
November 22, 2012
Daily Oregraph: 謹賀新年
先日の雪が日陰にほんの少しだけ残っている。このわびしい景色にも美を認める方はいるもので、写真を撮っていると、
-きれいですねえ。
と、ひとりのおじさまから声をかけられた。ぼくとしては定点撮影のつもりなのだが、おじさまの口ぶりから察するに、こういう景色を撮るとは見どころがあるということらしい(?)。
-ところで、謹賀新年とはなにごとだい? 駄ボラもたいがいにするがいい。
-ちょいと待ったり。口だけ達者などこぞのカブ野郎や、太陽族のなれの果てじじいといっしょにされては迷惑千万。
-すると本当?
-もちろんだとも。
ほら、ごらんなさい。もうこんな時期になったのである。
さて本日の読書より。自殺した女性が残した手紙の書き出しである。
正直に申し上げます。悲しい告白は、ときとしてごく手短かにすむものです。わたしの告白はたったの三文字。 I love you.
これ、どことなく太宰治調だが、ちょいと泣かせる。一生にいっぺんでもいいから、こういう手紙をもらいたいものだ。もう遅すぎるけどさ。
いよいよ Moonstone の謎の解明は近い。読み切って明るい正月を迎えたいものだ。
November 20, 2012
Daily Oregraph: 釧路雪景色
正確にいうと初雪ではないけれど、市内にまとまった雪が降ったのは今日がはじめてである。
雪の晴れ間に裏庭へ行ってみると、昨日解体したエゾヤマサクラの枝もごらんのとおり。太い部分が見あたらないのは、再利用するため三分割して別の場所に置いたからである。
正面左手奥に見えるのはナナカマド。こいつもずいぶん枝を払い、白い点のように見えるところはすべて切ったあとである。右手のチシマザクラも、道路側まではみ出した長い枝を一本バッサリやったのだから、まるで殺人鬼である。
その後ふたたび雪が降り出した。外出したついでに春採湖畔定点撮影(10時08分)。全国の釧路ファンに捧ぐ。
ああ、雪を見ると、昼間っから熱燗が飲みたくなる。あとで買いに行こうかな(笑)。
November 19, 2012
Daily Oregraph: グラスの中の悪魔
数日ぶりに春採湖畔へ。やや冷たい空気が心地よい。
この並木道は、マツの仲間だろう、針のような細かい落葉が降り積もって、今の時期には絨毯を敷きつめたようになる。
帰宅後、先日切ったエゾヤマザクラの太い枝の解体作業を断行する(おおげさな)。この枝を上の小さいノコギリで切るのはしんどかった。今日は買ったばかりの一回り大きめのノコギリを使ったので、作業はかなり楽であった。
マジメにお仕事したあとの昼食は、野菜たっぷりのスパゲティ。これ、みかけによらずうまいのである。
さて本日の読書。信心深いミス・クラックは、病気のおばさんにむりやりありがたい本を読ませようとする。もちろん悪気はない。それどころか、おばさんの病気には医学よりも信仰のほうが効くのだと信じ切っているのである。信仰も悪いとはいわぬが、ほどほどにしないとはた迷惑なようで、おばさんはすっかり閉口している。
クラックさんおすすめの一冊に『家庭のヘビ(The Serpent at Home)』というのがあって、ヘビはもちろん悪魔の象徴である。それによると、悪魔はどこにでも潜んでおり、たとえばヘアブラシの中、鏡のうしろ、テーブルの下、窓の外……つまり家中どこもかしこも悪魔だらけだから、用心せよということらしい。
しかしそれほどユビキタスな悪魔にどう対処しようというのか? (それに素朴な疑問だけれど)悪魔を野放しにしたまま、いったい神様はどこでなにをなさっているのだろうか?
……とまあ、これはバチあたりのいうことだから、どうかご勘弁願いたい。ぼくだって、グラスの中に悪魔が潜んでいるという点については、同意しないわけでもないのだから。
November 18, 2012
Daily Oregraph: The Discovery of the Truth
冴えない天気であった。新しいノコギリを買いに出かけた途中で、むりやり撮ったのが今日の一日一枚。太い枝を払うのに、オモチャのように小さいノコギリを酷使したため、ヘナヘナになってしまったのである。
さて The Discovery of the Truth というのは、The Moonstone 第二部の表題である。この作品は推理小説にふさわしく、pipe とはなんぞや? という、まことに手数のかかる問題をぼくたちに提供してくれた。
いよいよその真実が明らかになるときがきたのである。
以前祇園精舎の鐘はゴーンというヤボな音ではなく、澄み切った音色であることをお教えくださった読者の方が、またしても pipe について貴重な情報をお寄せくださったのだ。まことにありがたいことである。
一見急須のフタを外したようなかたちだけれど、これがルーマニアのパイプの全体像である。メールでお教えいただいたたサイトは、料理研究家小暮剛さんの海外出張日誌で、それによると、小暮さんはルーマニアの酒場でこのパイプをごらんになったという。
実物の写真は「ルーマニア:美味しい果実酒との出会い編」という項目に掲載されている。サイズは手のひらにスッポリおさまるほど小さいものだ。もちろんかたちにはバリエーションがありそうだけれど、なるほどこれなら原作の pipe にどんぴしゃりである。
思うに昔々はヨーロッパ中で広く使われていたものが、いつしか廃れて一般には使われなくなったのだろう。それが現代のルーマニアに残っているというのは興味深いことである。日本でも地方の旧家には昔の食器が残っていたりするから、イギリスあたりでも、探せばあちこちにあるのかもしれない。
しかし英米の辞書に記載されていない以上、19世紀、いやもっと以前から飲み物用の pipe が一般的に使われていなかったことはまちがいない。OED では19世紀は現代扱いだから、廃れたのはかなり古い時期のはずだ。問題の場面が田舎の漁村であることには意味があると思う。BBCのドラマでこれが使われていなかったのは、小道具の倉庫に見あたらなかったせいかもしれない。
そういえば急須型の銚子の口から直接酒を飲んだり、ヤカンの口から水をラッパ飲みするシーンを、映画で見た記憶がある。あれも pipe の仲間と考えられないこともない。もっと早く気づくべきであった。
メールをくださったOさんにあらためて感謝しつつ、今夜も一杯……グラスでね。
なお問題の原文はせいぜい中学校程度の英語である。それでもわからないものはわからないのだから、外国語をなめてはいけない。スピードラーニングとは無縁の世界もあるのですよ。
November 17, 2012
Daily Oregraph: 朝食はしっかりと
午前中に浜へ行ってみると、恐ろしく風が強かったので早々に散歩を切り上げて逃げ帰り、また本を開く。
今日もおおいにはかどり、ベタレッジ老の語る第一部を終えて、いよいよ謎が解明される第二部に入った。
ベタレッジさんというのはイギリス流のひとつの見本みたいなおじさんで、
わたしたちは朝食を取りました。強盗だろうと人殺しだろうと、お屋敷でなにが起ころうとも、とにかく朝ご飯は食べなくちゃいけませんからな。
というのは有名な一節らしい。あなたも朝食を忘れてはいけませんぞ。
第二部の語り手はミス・クラック。まだ読みはじめたばかりだが、どうやら信仰にこりかたまった女性らしい。自分は信心深く立派な人物だと思いこんでいるだけに、いささか偏狭で偽善的な傾向がある。
彼女の属している慈善団体というのがおもしろい。なんでも、父親どもが質屋に入れたままの、つまりは質流れのスボンを買い取って、二度とダメ親がはけぬよう、こどものサイズに縮めて仕立て直すという団体らしい。
ズボンを質に入れて酒を飲むダメ親がいてこそ成立しうる慈善事業なのだから、ここは感心するところではなく笑うべきところなのだろうが(笑)、たぶん当時それに近い団体があったのだと思う。
さてそろそろパイプについては忘れようと思いながらも、もう少しだけ調べてみたら、上の図のようなブランデー・パイプというのが検索に引っかかったのには驚いた。もちろんガラス製の華奢なものだから、漁師のおかみさんがふだん使うとはとても考えられない。しかし容器に管がついているのは、名称にふさわしいと思う。材質や形はともかく、似たようなものがあったのかもしれない。
もうひとつ気になったのが右下の容器である。図の容器からフタを外せば、昨日掲載した写真のコップに形が似てはいないだろうか? 実はこれ、名称はわからないのだが、出所はこちら。飲み物の容器に関する記事中に "bottles, tankards and pipes" とあるので、ひょっとしたら……という気もするが、いっしょに出土した煙草用のパイプを指している可能性もある。
なお tankard というのは取っ手のついたマグ(ふつうビール用。フタ付きもある)をいう。上図のものもタンカードの一種かもしれない。
November 16, 2012
Daily Oregraph: ジンはストローで? (2)
昨日の pipe だが、あれからネット検索してみても、納得できる結果が得られなかった。
そこで、もう一度原文を読み直してみよう。
She clapped a bottle of Dutch gin and a couple of clean pipes on the table.
Clap というのは、ここではものを置くことだが、そっとではなく、どちらかというと軽快な動作でゴトッとかコトッと音を立ててテーブルの上に置いたのである。瓶はわかるとして、麦わらにはふさわしくない感じがする。第一客に瓶の飲み物を供するのに、麦わら(ストロー)をいっしょに出すというのは、やはり奇妙である。
それなら(実は最初に考えてはいたのだが)管または筒状のものをいっぺんに拡大して、筒状の入れ物と考えればいいかというと、glass や cup という一般的な単語があるのに、わざわざ pipe などというのはどうも解せない。
さあ、どうする(笑)。
困ったときは YouTube というわけで、TVドラマ化された The Moonstone を見ることにした。明記されていないが、たぶん BBC 制作と思われるものがみつかった。上の写真が問題の場面である。
漁師のおかみさんがテーブルの上に置いたものは、ジンの瓶と……あれれ、小型のカップがふたつである。 取っ手がついているからカップだろう。大山鳴動してカップがふたつか。まあ、筒状といえばいえるけれど、これがパイプとはなあ。
さてこのドラマの場面から、少なくとも現代のイギリス人の解釈では、pipe は飲み物を入れるカップのたぐいであることが確認できたわけである。もちろんドラマだから、原文の場面とは細かいところでちがいがある。たとえばドラマではおばさんはパイプ煙草をプカプカふかしながら(原作にはない)、自分でもカップにジンをついで飲んでいるし、客はふたりとも最初からジンを飲んでいるなど(原作では客のひとりのみ最後のほうで一口だけ飲んでいる)。
どうしても残る疑問は、現代のイギリス人が原作を読んで、パイプからすぐに写真にあるようなカップを連想するのかどうかという点である。ひょっとしたら、たぶんこんなものであろうと想像したんじゃないか……なんてね、自分でも疑い深くてイヤになる(笑)。
November 15, 2012
Daily Oregraph: ジンはストローで?
春採湖畔を歩く人々の服装に変化が現れた。風が冷たいのである。そろそろぼくも手袋を用意したほうがよさそうだ。
さて『月長石』はいよいよ面白くなってきた。
The Diamond is gone!
さあ、えらいことになった……といっても、そうならなくては小説が500頁もつづかないのだが(笑)。
実は推理小説というのはあまりお勉強には向いていない。早く先が知りたさに、つい細かいところはすっ飛ばして読みがちだからである。経験的にいって、筋を追うだけなら、70点以上の実力があれば、さほど大きなまちがいもなく読めるだろう。
そこをじっとこらえて丁寧に読んでも、コリンズの文章は平明だから、ずいぶんはかどる。これまでの作品に比較すると、ノートを取る箇所が明らかに少ないのである。しかしいくら文章が平易だとはいえ、解釈に窮することはある。たいていは風俗習慣に関するものが多い。辞書にあたればわかることもあれば、わからないこともある。
今日読んだところでは、to draw me like a badger なんてのは、みなさまにも興味がおありだろうと思う。「アナグマみたいに私を引っぱり出す(ために)」というのは、一体どういう意味だろうか?
(以前どこかに書いたけれど)いまでこそ動物愛護を看板にして日本人を野蛮人呼ばわりしているイギリスだが、昔は動物いじめの本家であった。たとえば bear-baiting のように、鎖につないだ熊に犬をけしかけていじめたりしていたのだが、上の表現もその仲間である。
辞書を引くと、badger-drawing(またはbaiting) というのがあって、これは穴(樽)の中にいるアナグマに犬をけしかけて、外へ引っぱり出すのである。追い出されたアナグマは犬に責められてひどい目に会うわけだ。悪趣味といおうかなんといおうか、あまり英国の名誉になる話ではない。
だから draw the badger というのは一種のイディオムになっており、アナグマや敵を外へ誘い出す、つまり逃げ場のないところへ引き出してなぶる、という意味である。原文は省略するが、全体としては「あなたを外にお連れしたのは、あなたに質問責めにされるためではなく、あなたにお聞きしたいことがあるからです」というほどの意味だろう。
正直は美徳だから(笑)、未解決の例を挙げよう。漁師のおかみさんが、ふたりの来客にお酒を出す場面である。
彼女はオランダ製のジンの瓶と、きれいな pipe をふたつ、テーブルの上にトンと置いた。
さあ、このパイプはいったいなんだろうか? ジンを出してお飲みなさいというなら、グラスかカップを置くのがふつうであろう。しかし辞書をひっくり返してみても、 pipe にそんな意味はない。パイプなんだから(煙草を吸う)パイプだろうという説も一応は検討してみたけれど、そんな風習がある(あった)とは考えにくい。
思うにパイプとは管である。管には太いのも細いのもある。細い管にはどんなものがあるかというと、そう、ストローもその一種だ。OEDにも、「植物の茎などのように、さまざまの管状、筒状の自然物」とある。
というわけで、文章中のパイプは麦わらストロー(麦わらではないストローが工業化されたのは1888年らしい)であろうという考えに傾いているけれど、問題はグラスやカップならともかく、瓶に直接ストローを突っこんでジンを飲むものかどうか、である。ネット検索すれば、いずれわかるかもしれない。
あるいはぼくの考えすぎで、正解はとんでもないところにあるのかもしれないが、こういう恥ならいくらかいてもかまわないと思っている。
このようにいったん疑問を抱えると途方もない時間がかかるから、適当なところで手を打たなくては先へ進めないわけだ。100点なんてしょせん無理なんだから、80点主義でいこう、とぼくのいう意味がおわかりいただけるかと思う。
【追記】
ひょっとして見落としはないかと思い、いまざっと読み直してみた。しかし客が一口だけジンを飲んだとは書かれているけれど、パイプあるいは麦わらについては触れられていない。
ただし「ジンの瓶から (out of the Dutch bottle)」という表現が二度も出てきている以上、ラッパ飲みではなく(まさか?)、グラスもないとすれば(ふつうグラスにつげば明記されるはず)、麦わらの可能性は非常に高いと思う。
November 13, 2012
Daily Oregraph: さらば温根内
ひさびさの温根内。木々はみな葉を落とし、野原は一面に枯れて、もうなにもない。
ほんとうになにもない。枯草が風に吹かれてサワサワいう乾いた音を聞きながらテクテク歩くしかないのだが、それがまた実にいい気持なのである。
ここは真冬の雪の原も悪くはないけれど、たぶん次に訪れるのは来年の春になるだろう。さらば。
帰宅後は裏庭の枝払い。
本日の成果は写真のとおりだが、一番苦労したのは手前に見えるエゾヤマザクラの枝。小型の回し挽きノコギリしかなかったので、なかなか切れず、腕がバカになるんじゃないかと思った。これね、簡単には持ち上がらないくらい重いんだよ。
バラ戦争はまだつづいている。泥沼である。今日は太い幹の根元に近い部分を容赦なく切り取ったが、敵は恐るべき生命力を秘めているから、ふたたび枝が伸びてくることはまちがいない。
ああ、これらの枝を処分するためには、さらに切り分けなくてはいけないのだ。作業のあとはしばらく鉛筆を持つ手が震えるから、お勉強はひと休み。つらいなあ(笑)。
November 12, 2012
Daily Oregraph: しょせんは炭素
はりきって山花温泉へ行ったら、今日から三日間館内総点検のため臨時休業だという。あとで新聞を見たらちゃんとお知らせが載っていた。日ごろ新聞をろくに読まないからこういうことになる。
雨もパラついていたし、しょうもない写真しか撮れなかったけれど、ここは港町から南新埠頭へ向かう道路である。わずかながらに昭和の風味が残っていると思う。
温泉にはふられたが、文句をいってもしかたがないので、部屋に戻ってまた本を開く。執事のベタレッジ老が問題のムーンストーンを初めて目にする場面である。
おお、なんと! それはダイヤモンドでした! 大きさはチドリの卵ほどもありましょうか! ダイヤモンドの放つ光は、秋の満月の光でした。石をのぞくと、黄色い深みに引きずりこまれ、すっかり目を奪われてしまうのでした。底が知れないのです。親指と人差し指でつまめるほどのこの宝石には、はても知れぬ天そのものの深さがあるようでした。ダイヤモンドを日にかざして部屋の灯りを落とすと、その奥底の輝きからは、月のような光が暗がりの中に放たれるのでした。
ダイヤは長石ではないから、『月長石』はいかにもまずいけれど、このくだりを読むと邦題を『月光石』とでもすべきではないかと思う。月光というと青白い光を連想しがちだが、満月なら黄色でもちっともおかしくはないからだ。
チドリの卵というのは見たことがないから見当もつかぬが、なにしろダイヤである。ウズラの卵ほどだとしても、べらぼうな価値があるにちがいない。物語のはじめのほうには、この石を鑑定した結果は少なくとも2万ポンドとある。実は石のまん中にごくわずかのキズがあり、もしそのキズを避けて何個かに分割して加工すれば、さらに価値が増すのだという。
問題はポンドの価値だが、ジェイン・エアの年俸が30ポンドだったことを考えれば、いくら低く見積もったって、当時の1ポンドには1万円以上の値打ちがあったはずだとぼくは思う。とすれば最低でも2億円になるが、それほどのダイヤなら、もっと高額ではないだろうか。
しかしダイヤモンドに目がくらんだ一同の中には、ひとり冷静な紳士がいるのであった。
「炭素だよ! ベタレッジ、いいか、しょせんは炭素にすぎぬ!」
すばらしい! こういうセリフを覚えておくと、いつかあなたの役に立つときがあるかもしれない(笑)。
なんの罪もないどころか、生命の基礎ともいうべき炭素を目の敵にしているみなさまは、さっそくダイヤをお捨てになって、低炭素社会(笑)とやらに貢献されてはいかがだろうか。
November 11, 2012
Daily Oregraph: 週末絵日記
11月10日。春採湖畔定点撮影。すっかり寒々しい景色になってしまった。葉の落ちた枝の間を、強風が吹き抜けていく。
11月11日。釧路町にあるディーラーの工場でタイヤを交換してもらう。もちろん自分でできないこともないけれど、最近根性がなくなってきたのである。
待ち時間に付近を散歩した。このあたりはいわゆる新開地なのだが、きわめて便利はいい。大型スーパーをはじめ、各種の大型専門店、食堂・レストランから学習塾まで、なんでもそろっている。
しかもだだっ広い駐車場があちこちにあるから、車は無料で停め放題。これじゃ北大通に人が来ないのも無理はない。悲しいことだが、公共交通機関の四通八達した大都会とは条件がちがいすぎるのである。
新興商業地区もそうだが、隣接する新興住宅地もたしかに便利はにちがいないけれど、印象がうすっぺらいことは否定しようがない。歩いても歩いても、どこにでもありそうな景色がつづくのである。つまり釧路でなければならぬという理由がまるで見あたらないのだ。
無味無臭の景色の単調を破るものは、やはり人の匂いである。七輪でサンマを焼く煙がもうもうと立ちこめていれば申し分ないのだが……
帰宅してボロ家の裏庭へ行くと、これが同じ釧路かと思うほどの落差がある(笑)。
伸び放題に伸びたユスラウメの枝を、ノコギリでバッサリ切り落とした。すごいボリュームである。ゴミとして引き取ってもらうには、こいつをさらに適当な長さにして束ねる必要がある。明日以降はさらにサクラやナナカマドの枝も払わねばならないし、どうやら一仕事になりそうだ。
切りそろえた枝を背中にしょって『月長石』を読みながら歩けば、気分は二宮金次郎。釧路小学校の校庭にぼくの銅像が建つ日は近い。
November 09, 2012
Daily Oregraph: 執事の文学有用論
昨日はたまたま晴れたけれど、このところどうもパッとしない天気がつづく。もっとも晴れたからといって、どこかへ遊びに行こうというわけではない。せいぜい春採湖畔を散歩するくらいのものである。
習慣とは恐ろしいもので、そろそろノンキに……と思っていたのに、結局はこれまでとペースはたいして変わらない。判を押したような生活である。それでも退屈せずにすむのは、小説のおかげだろう。変化が紙の上に次から次へと現れるからだ。
このように、文学とは実はたいへん有用なものなのだから、文学部をごくつぶし(笑)のようにいう人にはぜひ反省していただきたいものである。
一冊の本がどれほど人の役に立つか、『月長石』の語り手のひとりである執事のベタレッジ老はこう証言する。たいへんな説得力があると思う。
ものを知らぬ男のいうことだ、などとお考えににならぬよう願いたいのですが、わたしは『ロビンソン・クルーソー』ほどの本はこれまでなかったし、この先もう二度と書かれまいと思うんですよ。わたしは長いことあの本とつきあってきました-たいていはパイプをふかしながらなんですがね。人生でどんな困りごとがあったって、心強い味方になってくれるのです。気分が落ち込んだら、『ロビンソン・クルーソー』。相談ごとがあったら、『ロビンソン・クルーソー』。昔女房にうんざりさせられたときも、このごろ酒に酔ったときも、『ロビンソン・クルーソー』。すっかりこき使ったものですから、頑丈なロビンソン・クルーソー君を六冊分ボロボロにしてしまいましたよ。奥様がご自分の最後の誕生日に七冊目をくださいましてね、それがうれしくてつい酔っ払ってしまったんですが、『ロビンソン・クルーソー』のおかげでまた正気を取り戻したというわけです。値段は4シリング6ペンス、青い装幀の、挿絵までついた本なんです。
さあ、あなたも女房を質に入れて(4シリング6ペンスね)、『ロビンソン・クルーソー』を買いに走るべし。
November 08, 2012
Daily Oregraph: Moonstone はムーンストーンか?
天気予報がよいほうに外れて青空が広がった。しばらく天気が悪かったから、気分が晴れ晴れする。
11月2日に撮影した木は、すっかり葉っぱが落ちて丸裸になってしまった。
『大いなる遺産』を読了したお祝いのケーキ。マジメに読書すればするほどケーキを食べる回数が増え、腹が膨張するという大いなる矛盾。
さて今日のタイトルだが、ウィルキー・コリンズの The Moonstone (邦題『月長石』)について考えてみようという趣向。
Moonstone はムーンストーン(月の石)にして、ムーンストーン(月長石)にあらず。別に翻訳業界にケンカを売ろうというわけではないが(笑)、明らかに誤訳なのである。
コリンズの小説に登場する moonstone の正体は黄色いダイヤで、もちろん本文にも書いてあるし、ペンギン・ブックの裏表紙にも "The Moonstone, a yellow diamond of unearthly beauty" 云々と明記されている。
それなら月長石としての moonstone はなにかというと、OED によれば、アデュラリア(adularia 水長石)やアルバイト(albite 曹長石)のたぐい、古くはたぶんセレナイト(selenite 透明石膏)を指したのではないかという。いずれにしてもダイヤなんかじゃない。
「あんたうるさいよ。そんなことどうでもいいじゃないか」などと笑ってすませてはいけませんぞ。なぜかというと、計り知れぬ価値を持つ大型のダイヤであるムーンストーンをめぐって流血の事件まで展開されるのだから、二級品の宝石の名前を邦題に充てるのは無理があるからだ。ふつう安い宝石を欲しがって危ない橋を渡ったりはしないだろう。
Daily Oregraph: 次はムーンストーン
雨の中を定点撮影。いつもと画角が異なるのは、カメラをサッと取り出してパチリ、すぐに懐へ戻したからだ。傘をささないからそういうことになったわけ。
しかし雨のおかげで、今日は一気に本を読み終えた。一ヶ月を切ったのは、われながら上出来である。
最後の数章には、とっくに涙枯れ果てたはずのおじさんも泣かされた。さすがは大作家である。りらさんがおっしゃっていたように、ストーリーにうまく偶然が重なっても「許せるか、許せないか」……許せるのは一本筋が通っているからだろう。この小説があと百年たっても読み継がれることはまちがいないと思う。
ネタばれを避けるために、余計なことを書くつもりはないけれど、ひとつだけ印象的な文章をご紹介しておこう。
法廷の大窓からは、ガラスに残る雨粒をきらめかせながら日が射しこんでいた。その一条のまばゆい光線は三十二人の被告と判事との間に落ちて、双方を結びつけているのであった。それを目にした人々の中には、万物を見通して決してあやまたぬ、より偉大なる神の審判の日に向かって、裁くものと裁かれるものとが、ともにまったく等しい立場で進みつつあることに思いをいたしたものもいよう。(第56章)
この世では正義は実現しがたいけれど、それではあまりにも救いがないから、日の光が射しこんでくるのである。
不信心者のぼくがいうとお叱りを受けるかもしれないけれど、この光が教会の中に射しこみ、説教をするものとされるものとを照らしたらどうなるだろうか。ぼくにはハーディの『ジュード』がぼんやり浮かんでくるのだが……
まあ、感想めいたことを書こうと思えば、もっといろいろ書けないこともないのだが、素人が文学部の先生の職域を侵すのはやめておこう(笑)。第一そんなヒマはないのである。さっそく次の作品に取りかからなければならない。
『大いなる遺産』には推理小説風のところがあるけれど、やはりディケンズは年少の友人ウィルキー・コリンズの影響を受けたらしい。
コリンズといえば、これ、本格長編推理小説の元祖とされる『月長石』である。実はぼくは高校時代に翻訳を読みかけて途中で投げ出したのだが、今回は不退転の決意で臨みたい(どこかで聞いたようなセリフだね)。
この小説も約500頁。明日からはこれまでのノートの復習と並行して読むつもりだから、ぐっとスローペースになるだろう。
November 05, 2012
Daily Oregraph: 裏庭画報 最後の収穫
裏庭の白カブと小松菜。たぶんこれが今年最後の収穫になるだろう。実は10月中に種を播いたのがまだ少し残っているけれど、気温が気温だから、もはや成長は見込めないと思う。まあ、限界を見きわめる実験みたいなものである。
というわけで、今夜はカブの炒めものと小松菜のおひたしが食卓に並んだ。ほかに一尾37円のサンマなど。金のかからぬ、しかしリッチな夕食である。弱い者いじめの政府に対抗してしぶとく生きるためにも、来年はもう少し農業に精を出そうと考えている。
最後の収穫といえば、今読んでいる本も残すところ約50数頁となった。作者が結末へ向けて筆を急いでいるのが手に取るようにわかる。たぶんすでに次の作品つまり商売の構想を練っているのだろうが、プロなら当然のことである。
もういっぺんわめいてみやがれ、さっさと始末してやるからな!
と悪人に脅されて、主人公は絶体絶命のピンチに陥る。どうも大変なことになった。
もちろん主人公がここで死ぬわけはないと承知していても、やっぱりハラハラドキドキするものだ。この胸躍るおもしろさこそ小説の王道ではないかという気がしてならない。たしかに偶然はうまく重なりすぎるけどさ(笑)、ゆるしてあげようではないか。
November 04, 2012
Daily Oregraph: 落葉の町 帯広
今年はじめて帯広へ行ってきた。あいにく自由になる時間が限られていたため、ほとんど写真は撮れなかったが、街路樹の紅葉が実にみごとであった。
まだ明るい緑の残る葉や黄色い葉はもちろん、ときどき目をみはるほど鮮やかな真紅のものがある。作りものでもあそこまで紅くはできまいと思ったほどだ。気候のせいか樹種のせいかはわからない。
運転手の悲しさでシャッターを切ることができなかったのは残念である。帯広市内が紅葉見物の穴場とは知らなかった。
市内の道路はどこも落葉だらけである。風が強かったから、どこもかしこも落葉が宙を舞っている。あちこちで掃き集める人をみかけたけれど、とても成果があるとは思われない。
雪の多い帯広は落葉の積もる町でもあると、妙に感心して帰ってきたのであった。とにかく一見の価値はあるので、あまりよその町を宣伝したくはないが(笑)、ぜひ。
November 02, 2012
Daily Oregraph: 神だのみ
もうひとつの定点撮影。だんだん撮るものが減ってきたのにつれて、黙々と歩くようになってきた。運動にはなるが、おもしろくはない。
そろそろ河岸を変えたいところだが、ほかに適当な場所は見あたらないし、どうしようか。冬も近いことだし、いっそ来年の春までは現在のペースを守って読書をつづけたほうがいいのだろうか……というわけで、ちょっと迷っている。
いずれにしても、ピップ君の運命を見定めたらひと休みして、いままでに取ったノートを読み返さなくてはいけない。前回までの分だけで、ノートはすでに合計1,135頁に達したから、今回の分を入れれば最低でも1,300頁にはなるだろう。復習するには少なくとも年内一杯はかかるはずだ。
たまにノートを見直すと、忘れていることが多いのには愕然とする。もともと記憶力がよくないところへもってきて、老化のせいだろうか、いっそうバカに磨きがかかってきたようである。
上の写真の木がもうすぐ丸裸になってしまうように、頭の中がすっかり空っぽになるのかと思うと、あまりの恐ろしさに身震いしてしまう。これではいけない。かくなるうえは、もはや学問の神様におすがりするしか残された道はない。となれば、まずは北野の天神さん(笑)。年内にはなんとか実現したい。
ものを忘れようと、年を取ろうと、容赦なく腹は減る。はい、これが本日の昼食。自家製簡単ラーメンである。
只野乙山さんのブログにラーメンの記事が掲載されていたので無性に食べたくなり、さっそく生ラーメンを茹でたわけだが、われながら単純。
即席ラーメンに毛の生えたような程度の手間しかかけていないけれど、これぞ伝統の釧路ラーメン、案外うまいものだ。大盛りにして食ったら、たちまち眠くなってしまった。これじゃ頭にいいわけないよ。
November 01, 2012
Daily Oregraph: 春採湖畔 落葉を踏んで
ひさしぶりに晴れたので、春採湖畔定点撮影。撮るたびに景色が赤みを増してくる。
湖畔の散歩道は、場所によってはほとんど落葉で埋めつくされている。
読書のほうは順調に進んでいる。しかしこの本(『大いなる遺産』)は、途中途中で感想を書きにくい作品だと思う。
ウィルキー・コリンズは読者を「笑わせ、泣かせ、じらす」のが小説家の仕事だと言い放ったが、その点ではディケンズはプロ中のプロである。『大いなる遺産』などはその典型のひとつといっていいだろう。
まずあらかじめ謎をいくつかしかけておく。明らかに読者をひっぱる作戦だとは承知していても、ついつられてしまうことはいうまでもない。謎は適当な時期にひとつひとつ明かされていくのだが、これまた巧妙な作戦である。それでもまだ謎は残るから、読者は先へ進まざるをえないというわけだ。結局これは謎ときで読者の興味をつなぐ推理小説の手法に近いと思う。
つまり感想を書きにくいというのは、謎が作品の興味の中心である以上、どうしてもネタばれになりがちだからである。
話をおもしろくするために、偶然がうまく重なりすぎているところもないではない。しかしそれはしかたがないだろう。なにしろ生活がかかっているのだから、売れもしない本を書くわけにはいかないのである。 純文学だの大衆文学だのという、腹の足しにもならぬ議論に首を突っこんでいるヒマはないわけだ。
しかしただおもしろいだけで内容空疎な作品は書かないところが、大作家の大作家たるゆえんである。この種の小説を飯のタネにしている文学部の先生たちとのうるわしき共同(笑)が存在することは、みなさまご承知のとおり。
まあ余計なことは書かず、楽しんで読めばいいのだろう。
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