Daily Oregraph: ある幽霊譚(漱石『琴のそら音』から)
へたくそな画像は興ざめだろうと判断したので、めずらしく画像のない記事である。
只野乙山さんは漱石の作品をこつこつとお読みになって、ブログに感想をお書きになっている。なにしろ初期の読みにくい小品までていねいに鑑賞されているのだから頭が下がる。
乙山さんの10月16日の記事は『琴のそら音』を扱ったものだが、実はこれ、ぼくにしてはめずらしく昨晩読むつもりだったから、また先を越されたわけである(笑)。しかし、これも考えようによっては感応の一種というべきで、この風変わりな小説にふさわしい出来事かもしれない。
この作品は青空文庫でも読めるのでご一読をおすすめしたい。正直いって描写が神経症的に細かすぎ、もう少しコンパクトであってもいいという印象を受けたけれど(生意気な……)、奇妙な味のある短編だから、けっしてつまらなくはないと思う。
さてこの小説の中に、こういう場面がある。
「(前略)ロード・ブローアムの見た幽霊などは今の話しとまるで同じ場合に属するものだ。中々面白い。君ブローアムは知っているだろう」
「ブローアム? ブローアムたなんだい」
「英国の文学者さ」
Lord Brougham (1778-1868)は、発音辞典を参照するとブロウアム、ブルーム、ブルーアムなどという読みが載っているけれど、この人の場合、正しくはブルームらしい(WIKIPEDIA 英語版による)。
ぼくはヴィクトリア朝時代のゴースト・ストーリーはかなり読んでいるつもりだが、ロード・ブルームという人物は知らなかった。はてな、と思って調べてみると、ロード・ブルームの幽霊の話というのはもともと小説ではなく、『回想録』中に日記の引用として登場するものらしい。
なんとかしてその原文を読みたいものだと思ってネット検索すると、あった、あった。ありがたいことである。たぶんテキストはいくつかのサイトで読めると思うが、ぼくの参照したものはこちらの中にある。
ロード・ブルームの見た幽霊の話は、『琴のそら音』のストーリーとおおいに関係があるから、ぼくの試訳を以下に掲載するので、参考にしていただければ幸いである。たまには文学部の下請けをしようという趣向である。なお申し訳ないけれど、訳がまずいのなんのという苦情は受けつけない(笑)。
「まことに驚くべき経験をした。あまりにも不思議な出来事なので、最初から話をせねばなるまい。
エディンバラのハイスクールを卒業後、私は親友のG君とともに大学に通った。
神学の授業はなかったけれど、私たちはよく歩きながらいろいろの厳粛な問題について語り合った。「霊魂の不滅と死後の状態」というのもそのひとつであった。
この問題と、死者が生者に姿を現す可能性についてはずいぶん思索を重ねたもので、自分たちの血で書いた文書をもってばかげた約束までしたのであった。つまり、二人のうちどちらか先に死んだほうが、もう一人のもとに姿を現して、死後の生命について抱いた疑問に決着をつけようという趣旨である。
大学卒業後、G君は公務員の職を得てインドに渡った。めったに手紙をくれなかったので、数年後には、私は彼のことを忘れかけていた。
ある日温かい風呂にのんびりつかりながら、そろそろ上がろうと思い、私はひょいと振り向いて、脱いだ服を置いてある椅子のほうを見た。すると椅子には G君が座ってこっちを見ていたのである。
どうやって風呂から出たものかは覚えがないけれど、意識を取り戻したとき、私は床の上に倒れていた。幽霊であれなんであれ、G君らしき姿は消えていた。
その幻覚にはひどくショックを受けたので、私はスチュワートにさえ話そうという気にはなれなかった。しかしあまりにも印象が生々しくて容易に忘れられず、ひどく動揺もしたので、12月19日という日付とともに一部始終をここにしたためおく次第である。いまもすべてありありと目に浮かぶのだ。
私が寝入ってしまい、眼前にはっきりと姿を現した幽霊が夢であることは疑いえぬところだけれど、G君とは何年もの間音信不通だったし、彼を思い出すきっかけもなかったのだ。私たちのスウェーデン旅行については、G君やインド、G君やその家族に関わりのある出来事などまったくなかったのである。私は昔二人で交わした議論や、例の約束のことをすぐに思い出した。
G君はこの世を去ったにちがいなく、彼の幽霊は霊魂の死後の状態を示す証拠だと受け取らざるをえない-私はそういう印象を拭い切れなかったのである」
これは1799年12月19日の出来事である。
1862年10月、ロード・ブルームはこれに追記して、
「わたしは自分の日記からこの不思議な夢の記事を書き写したのである。
「Certissima mortis imago(ラテン語はわからないが、「まさしく死者の幽霊なるべし」というほどの意味か)。さて約60年前にはじまるこの物語を終えることにしよう。
エディンバラに戻ってまもなく、一通の手紙がインドから届いた。それはG君の死を告げるもので、彼が亡くなったのは1799年12月19日であった」
ヴィクトリア朝は怪談話の黄金時代だから、漱石先生が材料をたっぷり仕入れたことはまちがいないとぼくは思う。
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Comments
こんにちは!
ううむ、さすがですねえ!
教養というか見識のある方はやはり違うなあ、
思わず唸ってしまいましたよ。
ロード・ブルームを実際にお調べになり、
訳までされるとは御見それしました。
なるほど漱石はロード・ブルームを読んで、
そのアイディアを「琴のそら音」の中で生かしてますね。
不思議な一致の物語だけに、薄氷堂さんとたまたま
読もうとした時期が一致したことは、なんだか
妙な、面白いものを感じました。
Posted by: 只野乙山 | October 17, 2012 13:06
>只野乙山さん
おほめいただくのはうれしいんですけど、キョーヨーとお金には縁がなく、おまけになけなしの若さまで失ってしまいました。どないしましょ(笑)。
ブルームさんの幽霊話は、いかにもありそうな内容ですから、漱石が似たような話を友人から聞いた可能性はあると思います。そうだとしても、パッとブルームの名を思い出すところが先生の先生たるゆえんなのでしょう。
とにかく漱石先生は恐ろしいほどの読書量を誇るお方です。ぼくもなんとか先生の24分の一くらい(笑)は読みたいものだと願っています。
19世紀の文学はとっくに著作権が切れていますから、ネットでいくらでも読むことができます。まことにありがたいことで、ロード・ブルームの幽霊話が読めたのもネットのおかげですね。
またおもしろいテーマがあれば、横道に入ってみましょう。
Posted by: 薄氷堂 | October 17, 2012 18:17
いやあ・・・研究者でさえあんまり目を向けないようなあたりを・・・よくもまあ・・・
私は近代・現代文学のあまりよくない読者で・・・たとえば石原慎太郎なんて読んだことがない(笑)。高橋和巳以外は漱石すらもその代表的な作品をちらちらと詠んだ程度。「門」だけは大学の演習でかなり詳しく読まされましたが・・・
その時漱石に関する論文をかなり読み散らかしたのですが、この作品に触れている論文にはお目にかかれませんでした・・・
いやあ、お二方とも、なかなか・・・
Posted by: 三友亭主人 | October 17, 2012 21:22
>三友亭さん
いえいえ、ぼくの動機はそんなに立派じゃないんです。えらいのは乙山さんですよ。
ぼくは昔から怪談話が好きなものですから、ブルームさんの見たという幽霊が気になってしかたがなかったのです(笑)。
不信心者なのに神社が好きで、幽霊を信じないくせに怪談が好きというのもちょっとヘンかもしれませんが……
Posted by: 薄氷堂 | October 17, 2012 23:11
門外漢登場!
って・・・威張ってどうするですけれども。
お勧めいただいて『琴のそら音』を読んできました。
あの文体で横書きというのは辛いですねぇ。
でも、ぎっちり詰ったさすがは漱石!という文章だったと思います。
(それでも、まだ本格的な漱石調では無いのですねぇ。最近はスカスカした小説が多くて・・・)
「焼小手(やきごて)で脳味噌をじゅっと焚(や)かれたような心持だ」というくだりなんか、実感ひしひしでした。
それにしても、秋の幽霊ってのは・・・うふふふふ
Posted by: りら | October 19, 2012 17:03
>りらさん
おお、お読みになりましたか。漱石文学の普及における乙山さんの功績にはまことに大なるものがありますね。
> ぎっちり詰ったさすがは漱石!という文章だったと思います。
ちょっと詰まりすぎかな、という印象を受けました。スカスカの小説に慣れた人には、読むのがしんどいかも知れませんね。
おまけに、「君ブローアムは知っているだろう」と一発くらってはねえ(笑)。
スカスカどころかほとんど空白部分のない『幻影の盾』を読破された乙山さんには脱帽です。ぼくには今のところとても読む元気が湧いてまいりません。正直いって、1799年12月19日のブルームさんの日記のほうが読みやすいです。
Posted by: 薄氷堂 | October 19, 2012 21:03
Dude.. I am not much into reading, but somehow I got to read lots of articles on your blog. Its amazing how interesting it is for me to visit you very often.
Posted by: hermes bag | October 20, 2012 02:41
> hermes bag
Many thanks for your comment. Please drop in now and then to enjoy my photos, which require no knowledge of the Japanese language.
Posted by: 薄氷堂 | October 20, 2012 09:26