
昨日ご紹介した流れ地蔵のある出雲を含めた、今回の記事の範囲である。大正14年大日本帝国陸地測量部発行とある(現行の地形図ではなく、ずいぶん古いものだから、そのまま掲載してもお咎めなしだと思うが、もしまずければ削除したい)。
頭がクラクラするような等高線は、地形図を見なれぬぼくにも、豊かな平野部とはまったく異なる風景を予想させる。せっかくだから、地図を部分的に取り出して見ることにしよう。
まず注目すべきは、山の斜面にたくさん水田があること。明らかに棚田であり、平野部とは打って変わって、人々がきびしい生活を送ってきたことがわかる。現在どれほど残っているかはしらないが、与喜浦の棚田は有名らしい。
S通信員はこの日たどったコースを地図に橙色の線で示しているが、与喜浦へ上る坂道はぼくの示した赤い線が正しい。ぼくの持っている『JTB 詳細 奈良・大和路』には長谷寺周辺の詳しい地図が掲載されており、前回の写真に登場した「さかえや」も載っているからまちがいない。S君のかんちがいであろう。
かなり急な坂であることは等高線の傾きからもわかる。舗装されているところをみれば、乗用車はギリギリ通れるのだろうか?
与喜浦集落を望む。大勢いた観光客はすべて長谷寺へ向かい、人気がまったくない。
急坂を上り切ったので、「フーッ」と大声を発すると、集落のほうから犬の散歩にやってきた婆さんが、ビックリしたらしく引き返していった。観光地の住人はたいてい愛想のよいものなのに、よほど人の歩かぬ道とみえる。
後日入手した街道散策の本の著者も、この区間には気づかず通過している。
【薄氷堂追記】S君の通った区間にその本の著者が気づかなかったことは、ルートのちがいで説明がつくと思う。つまり著者は上の橙色ルートを上ったのであろう。またS君はその本に記載されていたルートを、そのまま地形図上に示したのかも知れない。
山頂の神社。JTBの地図によると、与喜浦天満宮(実は愛宕神社。追記ご参照)である。
【2月14日追記】
これは誤り。地形図を確認すると、この神社の位置はJTBの地図に示された与喜浦天満宮の位置と一致しない。ところが、山頂にあるこの神社はなぜかJTBの地図には記載されていないため、ぼくがかんちがいしたわけである。
桜井市の住人三友亭さんがご親切にもぼくのまちがいを指摘してくださったので、もう一度地形図のコピーに目をこすりつけるようにして見れば、なんたること、与喜浦集落にはもうひとつの神社マークがあったのだ。最初からこれに気づいていれば……

上の拡大図をよくごらんいただきたい。矢印の部分だけ明度を思い切り上げ、シャープネスをたっぷりかけて処理したものである。
ここまでレタッチしてもなお見にくいけれど、たしかに集落の西のはずれには神社がある。たぶんオリジナルの地形図だともう少し見やすいと思うが、コピーの悲しさ、記号が斜線に埋もれていたのだ。
これによって、S君が黄色いマーカーで示した神社は愛宕神社、矢印の神社が与喜浦天満宮であることが確認できた。
なおこの土地には与喜天満神社という由緒ある神社があり、たいへんまぎらわしい。これまた地形図にも載っているけれど、やはり記号が見にくいので、JTBの地図をもとに作成した下の略図をごらんいただきたい。
与喜浦天満宮(実は愛宕神社)から見た長谷寺全景。
集落へ向かう坂道を下る。
与喜浦集落に入る。さきほど婆さんの連れていた犬が吠えかかる。その先で別の犬が後を引き継いだ。
【2月14日追記】
では肝腎の与喜浦天満宮は? 写真を徹底的に見直したところ、あった、あった。実はこの写真右手の建物がそうなのだ。
枝に隠れて気づかなかったが、よく見ると、

はっきり「天満宮」と読み取れる。これにて一件落着。写真の威力は絶大である。
三友亭さんには重ねてお礼申し上げるとともに、なにごとも徹底して究めようとされる姿勢には満腔の敬意を表したい。
集落のはずれで、三匹目の犬がしんがりをつとめ、視程からはずれると、高らかにワンと一声鳴いてしめくくった。あまりにもみごとな「犬の町内送り」である。どうも長谷寺参拝客の内こちらまで足を伸ばすのは何千・何万分の一程度らしい。
この写真右手の家は、もと茅葺きだったのだろうか、トタン屋根というのはめずらしいと思う。しかもトタンの葺き方が北海道あたりとはちがい、まるで瓦を重ねたように見えるのは興味深い。
屋根の下に「水」という文字が見える。これは京都あたりでも見られる火よけのまじない。ついでだから京都の例をお目にかけよう。
1970年代に京都市の賀茂川上流あたりで撮影
集落を過ぎてなおも旧道を行く。
国道165号線が見えてきた。
ついに畑の畦道になってしまう。古地図とも一致し、江戸時代の街道そのままの道幅と見てよいだろう。本日の成果である。
旧道が終わったところで、S君は近鉄榛原駅まで歩こうかと迷ったが、かなり距離もあるので、
結局与喜浦の「旧国道」を西へ向かって歩き、
近鉄大阪線の長谷寺駅から帰途についたのであった。
やっとこの徒歩の旅について書き終え、ぼくもホッとしている(笑)。実はS通信員、この前日つまり2009年12月31日には、大阪堺市から竹内街道全区間を踏破しており、寒さに遭いさえしなければ、そのまま桜井市まで前進するつもりでいたというから驚く。
さらに2010年1月9日には、近鉄三本松駅から室生寺まで歩いているので、竹内街道編、室生参詣道編も、いずれ気力の充実したときにまとめねばならない。せっかくの取材の成果を埋もれさせるわけにはいかないからである。
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