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January 06, 2012

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (13)

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   2005年1月14日撮影 春採駅構内

 『臨鉄60年の軌跡』を読むのも、いよいよ今回が最後になる。同書の年表は昭和58年(1983年)で終わっているからである。


新体制発足


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   2005年1月14日撮影 D701

 昭和53年4月、新造ディーゼル機関車D701(日本車輌製 重量55トン 定格出力500馬力×2)を導入し、4月15日より使用開始。

 昭和53年5月、新東京国際空港(成田空港)開港。


 この空港は地元農民に新左翼各派が加わった大規模な反対運動を押し切って開港を強行したのだが、それももう忘却の彼方に消え去ろうとしている。

 昭和53年7月24日、春採~知人間重軌条更換工事竣工(40kg→50kg)。

 昭和53年10月7日、春採~知人間軌道表示ならびに沼尻踏切非常用て子取付工事完了。

 昭和53年11月、石炭車セキ6両国鉄より払い下げ。

 昭和53年12月、石炭車セキ6両廃車。

 昭和54年2月20日、ディーゼル機関車D501廃車。

 昭和54年3月22日、東釧路~春採間、0.321kmから1.821kmまでの重軌条更換工事竣工(30kg→40kg)。

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 昭和54年4月30日、太平洋炭礦炭の流通部門一体化を図るべく、釧路臨港鉄道株式会社は太平洋石炭販売輸送株式会社に吸収合併され、釧路臨港鉄道事業本部として翌5月1日より新体制下に入る。


 この歴史的な出来事を、ぼくは恥ずかしながら記憶していない。当時はあまり熱心に地元紙を読んでいなかったせいだろうと思う。

 写真は2005年1月14日撮影のものだが、現在も変わっていない。太平洋石炭販売輸送株式会社サイトの最新の「事業案内」では輸送部とされているので、輸送部鉄道課ということだろう。『臨鉄60年の軌跡』(昭和59年11月)発行後、時期はわからないけれど、組織変更が行われたのである。

 昭和54年11月30日、知人駅本屋改築工事および春採駅構内照明設備改良工事竣工。

 昭和55年1月14日、機関区敷地内に機関車用軽油タンク1基(8,500リットル)新設工事竣工。

 昭和55年5月、石炭車セキ5両国鉄より払い下げ。

 昭和55年8月、新造連接石炭車セキ2両導入。

 昭和55年11月28日、知人港頭着太平洋石炭の一日当たり輸送量が10,800トンに達し、開業以来の新記録を樹立した。


 大正7年に木村組によって馬車軌道が全線複線化され、月間6,000トンの輸送が可能になったことは、この特集第5回に述べたとおりである。

 昭和56年3月3日、春採保線用品庫新築工事竣工。

 昭和56年4月、石炭車セラ4両廃車。

 昭和56年8月31日、グリーンベルト・花壇造成など春採地区環境整備が完了。

 昭和56年9月10日、春採駅継電連動装置を一部改良し、制御盤に進路表示灯が増設される。

 昭和57年4月1日、安全管理室を新設。

 昭和57年4月15日、東釧路~春採間重軌条更換工事竣工(30kg→50kg)。

 昭和57年4月20日、貨物運賃改正実施(6.8%アップ)

 昭和57年8月1日、運転取扱心得改正施行。

 昭和57年9月30日、太平洋製作所に発注した保線作業用マルチプルタイタンパーが試作完成。

 昭和57年11月9日、春採駅構内にマルチプルタイタンパー格納庫新設工事竣工。

 タイタンパーが保線用機械であることはすでに第10回に述べ、保線作業に使用されていた車両がたぶんそれではないかと思い、写真を掲載した。

 今回冒頭に掲げた写真 はその車両を反対方向から見たものである。未確認だけれど、これが「マルチプル」タイタンパーなのかもしれず、冬期間にはラッセル車としても活躍するらしい。確認するためには、もう一度取材する必要がありそうだ。

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   2012年1月2日撮影 釧路市春採下水ポンプ場と踏切

 昭和58年7月25日、市営春採ポンプ場踏切道新設工事竣工。

 このポンプ場裏手の丘の上には、春採竜神の小さな祠がある。

 昭和58年11月10日、市道変更改良にともなう桜ヶ岡踏切道改良工事竣工。

 『臨鉄60年の軌跡』の年表はここで終わっている。以下に本文の最終章「今後の輸送体制について」を全文引用する。

 日本国有鉄道100年有余の歴史のなかでも、とりわけ昭和40年代後半から日本経済の構造変化にともなって物流を取り巻く環境は著しく厳しさを増して来ました。

 特に、道路輸送の発達や内航海運の進展にともない物流量が著しく増加しているにもかかわらず鉄道輸送量は減少の一途を辿っています。釧路臨港鉄道としてもその輸送量は国鉄に比例して減少しつつあるのが現状です。

 しかし、当社は今後とも国鉄との連絡運輸の使命を果たすと共に、全国に誇る国内唯一の海底炭礦である太平洋炭礦の石炭輸送を主力として、高能率と安定輸送を推進させる。ここに大きな使命を置くものです。


 臨鉄の社史発行時からさらに30年近くが経過し、その間昭和62年(1987年)には国鉄が分割民営化され、平成4年(2002年)には太平洋炭礦が閉山して釧路コールマインが採炭事業を継承するなど、状況は一変した。

 臨鉄の運行区間も現在では春採駅~知人駅のみとなり、国鉄との連絡運輸もその他の駅の廃止とともにその使命を終えた。各駅の廃止時期など、昭和59年以降の歴史についてもおおいに興味のあるところだが、それを知るためには新たな資料を必要とすることもあり、この特集はひとまず終えることにする。

 次回は最終回として、主に未発表の写真を取りまとめ、一挙掲載することにしたい。

(つづく)

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