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December 30, 2011

Daily Oregraph: 歳末港湾パトロール

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 今日は北埠頭から南新埠頭方面を撮影後、副港(漁港区)へちょっと立ち寄ってみた。上に掲げた釧路港東区(通称東港)の略図をごらんいただければ、場所は大体の見当がつくと思う。

 なお当ブログ左サイドの SITESEEING の「釧路港略図」をクリックしていただくと、港の全体図が表示される。かつて外国人船員のために作成したものに、ちょっとだけ手を加えてある。自分でいうのもなんだが、なにかと便利なので、ぜひご自由に利用いただければ幸いである。

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 -まずは中央埠頭から見た北埠頭。う~む、上天気だなあ。ではパトロール開始。

 -パトロールって、あんた、頼まれもせんとそんなアホなことようやりますな。

 -でもね、月光仮面だって、だれに頼まれたわけでもないのに、オートバイに乗ってあちこちパトロールしてるじゃありませんか。港の平和を守るのは、正義の味方のつとめなのです。

 いまどき月光仮面をご存じの方なんてあまりいないんじゃないかと思うけど(笑)、ほかに適当な人物が思い浮かばないのは悲しい。

 -月光仮面? それ、なんですの?

 -財務省にアジトをかまえて消費税を上げようとたくらむサタンの爪一味に、拳銃を構えて敢然と立ち向かう白覆面黒眼鏡のおじさんが月光仮面なんだから、よく覚えておいてね。

 -へえ、えらいカッコええけど、それテロリストとちゃうの?

 -それをいっちゃ、怪傑ハリマオだってテロリストにされちゃうだろうが。

 -え、怪傑ハリマオってだれですの?

 -ちぇっ、もういい。

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 テロリストとは失礼千万だが、どうみても月光仮面ほどカッコよくないおじさんは、北埠頭の突端をめざすのであった。

 こうして見ると、日通の倉庫もなかなか風格がある。ぼくが日活の監督ならロケにお借りしたいところである。

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 半逆光気味でちょっと見づらいけれど、東から入舟岸壁、南新埠頭、そして南埠頭。『臨鉄60年の軌跡』にもたびたび登場する場所である。

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 北埠頭から見た副港。副港はかなり大規模な漁港区で、いずれ詳しくご紹介する機会もあると思う。

 釧路港は昭和44年(1969年)から昭和52年(1977年)までの連続9年間、そして昭和54年(1979年)から平成3年(1991年)までの連続13年間に渡って、水揚量日本一の記録を誇ったほどの大漁港である。

 しかしその後次第に水揚量は低下し、特に今年は、

 道東沖のサンマは豊漁だったが、秋サケやシシャモの記録的不漁に見舞われた1年。(2011年12月28日 北海道新聞夕刊 くしろ版)

であった。漁業の不振が市勢低迷の一因をなしていることはまちがいない。こればかりは魚が相手だけに運任せだけれど、昔のにぎわいよもう一度と願わずにはいられないのである。

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 正月を控えて漁船に飾られた旗や、

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松飾り。漁師のみなさんとともに、来年の豊漁を祈る。

 まずは平穏な年の暮れに一安心して、港湾パトロールを終えることができたのはなによりであった。

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December 29, 2011

Daily Oregraph: クリーニング終了

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 今日も部屋の掃除を続行。一日では終わらぬほど散らかっていたわけだ。思い切って古い手紙をすべて捨てた。どうせ艶書のたぐいは一通もなし(笑)、いまとなっては惜しくもない。

 長年のよごれを徹底的に掃除するつもりならもう一日は必要だろうが、それでは石炭列車特集が片づかないので、本日をもって一応終了とした。

 午後は母を見舞いに病院へ。きのうの「永住」以来バス停に縁があるのだろうか、本日の一日一枚はこれである。

 時刻表の位置がいかにも低すぎる。これではお年寄りが腰をかがめるのは大変だろう。くしろバスにはぜひ改善を求めたい。自分がジジイになると、こんなことにも気づくようになるのである。

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December 28, 2011

Daily Oregraph: 旧永住町へ

 今日はマジメ元年の初日だから、さすがによく働いた。

 まずは部屋の掃除。残念ながらあまりはかどらなかったのは、古いノートや印刷物などがみつかるたびに、つい読みふけってしまったからである(これでも昔はちょっぴり勉強したんだよ(笑))。

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 次はおつかい。まるでこどもだが、生きてゆくためにはやむをえない。サバイバルのためには、妙なプライドなどは捨てねばならないのである。写真はおつかいに行った先でみかけた、いつに変わらぬ歳末風景。

 午後からは母が腰痛で入院中の病院へ行って、担当医師のお話をうかがい、新年早々に行われる手術の同意書に署名捺印した。これは愚かなる息子としての義務である。

 かくもマジメな一日ではあったが、高校時代から学校をサボって、南大通の映画館へ通ったほどの男が道草を食わぬわけはない。おつかいのついでに、旧永住町のあたりを撮影し、本日のネタを確保したのであった。

 石炭列車特集の第9回には臨鉄の永住町停留場(昭和28年設置)が登場し、


 いま永住町という町名はないが、地図には春採7丁目に「永住住宅」が、武佐1丁目にはくしろバスの「永住」バス停留所が記載されている。

と書いた手前、せめて永住バス停の写真を撮りたいと思ったわけである。

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 まずは釧路コールマイン(旧太平洋炭礦)の選炭工場入口へ向かう。

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 選炭工場の向かいから釧路町方面へ通じる貝塚通り。写真の左手が春採7丁目、右が武佐1丁目。このあたりがかつての永住町だろう。

 左に見えるアパート群が永住住宅である。この永住住宅がいかなるものかよく知らないけれど、ネット検索したところ、財務省所管施設一覧に掲載されていた。

 道路標識のある交差点を右に折れると永住バス停があるはずだ。

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 少し歩くと右手にふしぎな一角が現れたのでビックリした。へえ、こんなところに炉ばたやスナックの並ぶ小路があるのか。永住住宅の住民のみなさんが通うのだろうか。

 やはり歩けば発見があるものだ。貝塚通りはしばしば車で通っているのに、この小路には気づかなかったのである。

 写真なんぞ撮っていると、怪しまれてイヌに吠えられやしないかと心配したが、さすがは客商売、おとなしいものであった。

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 交差点を右折すると、パチンコ店の脇にバス停が見えてきた。

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 万歳! 永住バス停である。これでめでたく目的を達成したわけだが、いささか虚しさを感じないでもない。いかに記録のためとはいえ、年の瀬にわざわざこんな写真を撮りに来るとは。

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 最後の気力をふりしぼって、財務省所管の永住住宅をもう一枚。おもしろいだのつまらないだのとえり好みしてはいけない。記録する精神には、芸術家に劣らぬきびしさが必要なのである。

 なお地理不案内の読者のために、地図を用意したのでご参照いただきたい。

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December 26, 2011

Daily Oregraph: おでんへの道

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 ブレブレだけど昨夕の相生坂。街灯から下の坂はツルツルに凍っていた。先日で一杯やったばかりだというのに、またしても末広へ向ったのである。

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 気温は0度。さほど寒くはなかったが、強い風のため釧路川の水面はごらんのとおり。

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 現在幣舞橋は塗装工事中である。

 TAKE GOOD CARE OF  とは、いったいなんの世話を焼くのかと思ったら、日本語で小さく「かけがえのない自然。私たちは、大切にします」だそうな。ワケのわからぬ表示である。わざわざ英語にするなら WET PAINT! だろうに。

 しかしこのぶんだと植民地への道はまだ遠いから、安心といえば安心である。

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 先日点灯のセレモニーをしていた、河畔公園のイルミネーション。苦心の作だろうから、敬意を表してパチリ。

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 予想どおりテカテカの凍結路面。冬の風物詩といえぬこともないが、危険千万である。

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 強風に吹かれ、ツルツルの道路を踏破して、やっとありついたおでんは実にうまかった。この夜も某氏とともにごく上品な酒になり、まずはめでたい。

 今夜もまた末広出勤の予定である。いかに上品な酒といえども、二夜連続とはいかがなものか。

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December 24, 2011

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (11)

 本文に入る前に、前回の記事に登場した「臨港駅構内釧路石炭販売会社貯炭場用側線(延長115m売炭線」に関連する写真を掲載しておきたい。

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   2011年12月17日撮影 釧路石炭販売(株)臨港営業所

 写真右手が臨港営業所である。矢印はかつて線路があったのではないかと推定される場所。下の矢印はともかく、上のほうはまずまちがいないと思うので、ついでに反対方向から撮った写真も掲げておこう。

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   2011年12月17日撮影 入舟の線路跡

 臨鉄には側線がたくさんあったから、ここがどの線路なのかは不明だが、探せばほかにも線路跡がみつかるかもしれない。

 さて今回扱う範囲は昭和40年代前半である。

効率化の時代

 昭和40年1月25日、無線局設置の免許を受け、臨港、知人、春採の三ヶ所に基地局を新設、七ヶ所に移動局を設け、列車運行、貨車入換作業連絡用に無線機を採用した。

 昭和40年2月17日、蒸気機関車を全廃。

 これは昭和40年代の到来を象徴する出来事ではないかと思う。

 昭和40年4月、石炭車セキ5両国鉄より払い下げ。

 昭和40年5月、保線作業用タイタンパー2セットを導入し、突き固め作業の能率化を促進。

 タイタンパーとは tie tamper、レールを持ち上げて枕木の下に隙間を作り、砂利を突き固めてから砕石を入れて、高さや左右の歪みを調整する機械らしい(Wikipedia による)。未確認だが、前回掲載した保線作業の写真に写っている車両がたぶんタイタンパーではないかと思う。

 昭和40年7月15日、城山保線班を全廃し、全線を春採保線班と知人保線班の2班に編成。

 昭和40年9月8日、自社開発のセキ号車石炭排出扉自動開閉装置を取りつけた改造車両が認可される。

 昭和40年10月25日、春採駅信号取扱所増築工事竣工。

 昭和41年1月春採~知人間石炭専用列車に上記新型セキ号車編成によるシャトル・トレイン方式を採用して試運転を開始、3月31日に試運転を終了し、4月1日から正式運転を開始した。

 これはセキ号車列の両端に一両ずつ接続した機関車を、往路と復路で交互に使用する方式だろう。石炭を知人で自動排出したらすぐに春採へ戻れるという、たいへん効率的なシステムである。現在も石炭列車はこの方式で運行されている。

 昭和41年4月、事務の効率化をはかり、いちはやく小型電子計算機(オキミニタック1002)を導入。

 昭和41年5月11日、沼尻ならびに選炭場踏切遮断機を電動式に変更する工事が竣工。春採駅構内に人道跨線橋を架設、渡橋式を挙行する。

 昭和41年6月1日、石炭自動排出扉開閉装置開発の功績により、吉田社長が運輸大臣表彰を受ける。

 まだ実際に見たことはないのだが、石炭車の床部分が開き、石炭を重力によって落下させるしくみらしい。究極の省力化だと思う。ぜひ拝見したいものである。

 昭和41年9月15日、春採~観月園間の本線と並行する春採貯炭場専用側線新設工事竣工。

 昭和41年9月、緩急車2両廃車。

 昭和41年10月15日、自社発注新造連接石炭車セキ8両導入(日本車輌製 形式セキ6000 積載重量60トン)。

 前回写真を掲載した石炭車がこの新型車である。自動開閉装置について知っていれば、しくみを詳しく教えていただいたのだが、実に残念なことをした。

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 昭和41年11月12日、新造ディーゼル機関車D501(日本車輌製 重量25トン 定格出力320馬力×1)を使用開始(昭和54年2月20日廃車)。

 D501は廃車になったので写真は撮れない。『臨鉄60年の軌跡』より転載させていただいた。

 昭和41年12月1日、入舟駅(昭和15年開設)を廃止し、臨港駅に統合。

 昭和41年12月、石炭車セキ3両を雄別鉄道に譲渡。石炭車セキ9両廃車。

 昭和42年3月、石炭車セキ6両、無蓋貨車トム5両廃車。

 昭和42年4月1日、改造して自動開閉扉を取りつけたセキ号車に替わり、自社発注新造連接石炭車セキ号車(60トン積)によるシャトル・トレインを本格的に運用開始。春採集会所を設置。

 昭和42年4月13日、石炭車の大型化に対応し、春採~知人間の重軌条更換(30kg→40kg)工事竣工。

 昭和42年6月3日、春採駅西部構内より分岐する非常貯炭場専用側線(延長500m)完成。

 昭和42年9月7日、港町営業倉庫(2号倉庫 825平米)新築工事竣工。

 昭和42年9月30日、港町ガラス専用プレハブ倉庫1棟(198平米)新築工事竣工。

 昭和42年11月20日、同上の倉庫1棟(198平米)新築工事竣工。

 昭和42年12月30日、機関車庫増改築工事竣工。

 昭和43年4月20日、知人駅構内桟橋線入換制御所新設工事竣工。

 昭和43年5月10日、臨港駅構内村上専用側線(延長68m)新設工事竣工(昭和57年9月15日廃止・撤去)。

 昭和43年5月28日、春採~臨港間単線自動閉塞装置ならびに知人駅遠隔制御装置(R.C. 春採駅から知人駅を遠隔制御)の新設工事竣工。

 これもはじめて知った。春採~臨港間についてはタブレット閉塞式が廃止になったわけである。また駅の遠隔操作というのはどんなしくみなのかわからないけれど、ずいぶん思い切った発想である。

 昭和43年6月1日、知人駅を無人駅へ移行。

 昭和43年6月10日、埠頭岐線より分岐するプロパンガス専用側線新設工事竣工(後年廃止・撤去)。

 昭和43年8月6日、港町営業倉庫(3号倉庫 825平米)新築工事竣工。

 昭和43年10月、無蓋車トム5両廃車。

 昭和43年11月11日、春採駅構内選炭場線重軌条更換工事竣工(30kg→40kg)。

 昭和43年11月28日、東釧路~城山間を票券閉塞式からタブレット閉塞式に変更。

 昭和43年12月、コンピュータ FACOM 230-10を導入。


 なお昭和43年には中央埠頭が完成した。のちに西港時代が到来するまで、この埠頭は東港の中核としておおいににぎわった。当ブログ11月21日の記事をご参照いただきたい。

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   2010年11月13日撮影 太平洋スカイランド跡

 昭和44年5月、新造連接石炭車セキ1両導入。太平洋スカイランド、オープン。

 太平洋スカイランド(のちのヒルトップ)については、当ブログ2010年11月13日の記事ご参照。

 昭和44年8月、太平洋炭礦南益浦で採炭を開始。

 昭和44年6月30日、港町営業倉庫(5号倉庫 825平米)新築工事竣工。

 昭和44年7月1日、札幌営業所を開設し、清田倉庫の営業を開始。

 昭和45年1月31日、異常低気圧接近により、春採~知人間6.3km付近(千代ノ浦海岸)の線路道床が、高波により延長150mに渡って決壊・流出、開業以来の大被害を受けたが、全社員による懸命な復旧作業の結果、2月5日20時に開通した。

 昭和45年2月、雄別炭礦全山(雄別・尺別・上茶路)を閉山。

 これにより、1万5000人がヤマの生活に終止符を打った(釧路新聞社『釧路港開港百年記念誌』より)という、当地方にとってはまさに大事件であった。

 昭和45年3月、大阪で日本万国博覧会開催。

 当時ぼくは京都市民のはしくれだったが、ラジオから繰り返し Welcome to EXPO '70, Osaka, Japan. という英語が流れてきたことを覚えている。6,400万人以上もの入場者が押し寄せた大イベントであった。

 しかし官民挙げての大宣伝にもかかわらず、見かけ倒しの陳腐な内容であったことは否定できないと思う。ぼくは友人が東京からスポンサーといっしょに(笑)見物に来たので、タダにつられて万博会場へ行ったのである。

 ともあれ大阪万博といい、70年安保といい、時の経過を測る目安になる出来事ではあった。あれから40年以上が夢のように過ぎ去ったわけである。

 昭和45年4月15日、雄別鉄道48年に渡る営業を終える。

 小学校の夏休みに雄鉄に乗って雄別まで行ったり、なにかのときに鉄橋を歩いて渡ったりした思い出がある。

 炭礦が閉山すれば、大仕掛けな手品のように町がそっくりひとつ消滅し、鉄道も姿を消してしまう。わが臨港鉄道にはぜひとも末永くつづいてほしいと願うのみである。

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 昭和45年9月17日、新造電気式ディーゼル機関車DE601(日本車輌製 重量55トン 定格出力1,050馬力×1)を導入、10月7日使用開始。

 この特集第2回に掲載した父の写真に写っているのが DE601である。トリミングして再掲載した。この機関車も現在みかけないから廃車になったのだろう。

 昭和45年11月21日、永住町踏切第1種自動遮断機設置工事竣工。

 以上見たとおり、この時期をひとことでまとめると、自動化・効率化の時代といっていいだろう。『臨鉄60年の軌跡』もいよいよ残り頁が少なくなってきた。

(つづく)

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December 23, 2011

Daily Oregraph: 末広雪景色

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 昨夕はたいして寒くなかったので、歩いて街へ向かった。温度計はプラスの1度を示している。チルドルームくらいの温度だから、人間も長持ちするにちがいない。

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 橋を渡って河畔公園へ降りると、大勢の人が集まっている。格差社会抗議集会だと大ニュースなのだが、まさかね。

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 どなたかは存じ上げないけれど、抗議演説とは正反対の穏やかな調子でなにやらお話しされていた。今朝の新聞によると、イルミネーションを点灯する前の儀式だったらしい。

 ぼくは筋金入りの儀式ぎらいゆえ、この手のセレモニーにはてんで興味がないから、さっさと失礼したことは申し上げるまでもない。

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 釧路の飲食店街を代表するのが末広界隈である。正確にいうと、末広町、栄町そして川上町の三つに区分されるのだが、飲屋街の総称としての「末広で一杯」というのが釧路市民の合言葉になっている。

 このあたりはあちこちに路地もあり、裏通り派にとってはなかなか魅力的な地区である。しかしかつて漁業が盛んだった頃の勢いはもはやなく、おまけに長引く不況が影を落とし、近年ややさびれ気味であることは否定できない。

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 今回は歳末特集として写真を少し多めに掲載することにした。全国に散らばる末広ファンの方にも見覚えのある通りが写っているにちがいない。

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 釧路がいかに雪の少ない土地であるかはもうおわかりいただけたことと思う。毎度申し上げるように、問題は凍結路面。

 雪かきの度合いに応じて凍結した歩道があちこちに残っているから、酔っ払いにもそれなりの運動能力が求められるのである。

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 画面左上に見える看板は炉端の元祖といわれる「炉ばた」。有名店だからガイドブックなどには必ず登場する。観光シーズンになると、お店に入りきれない客が外で立ちん坊をして待っていたりする。

 余計なお世話だけれど(笑)、このお店をめざすなら、ご予算は多少余裕をもって用意するようアドヴァイスしておきたい。

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 ふらふら歩いているうちに某君と約束の時間になった。連休前だから忘年会もピークとみえ、最初のお店は満員御礼だったので、別のお店に入り、

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ヤキトリを食べながら、今の季節にふさわしい熱燗をぐいぐいやる。二時間半ほどよもやま話をしながら飲んで食べて、お互いもう年だから、二次会はせずに別れることにした。まずは上品なお酒になってなによりであった。

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 外へ出てビックリ。天気予報どおりとはいえ、いつのまにか雪がこんなに降っているとは思わなかったのである。

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 女性の白粉といっしょで、雪は七難を隠す(失礼)。夜の雪景色には格別の趣があるものだ。

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 こちらではおねえさんがお店の前の雪をホウキで掃いていた。ホウキが見えないのは手ぶれ+被写体ぶれのせいである。

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 この夜もまた残念ながらピンクの傘をさした女性には遭遇しなかった。雪の夜にはピンクが映えるのになあ。

 さてこのぶんだと朝は雪かきだな、と憂鬱な気分で帰宅したのだが、

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一夜明けるとこのとおり。夜のうちに雪が雨に変わったらしい。雪かきを免れたのはうれしいけれど、道路が凍ったのは困りものである。

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December 22, 2011

Daily Oregraph: 嵐の前

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 天気予報によれば、今夜半から風が強まって荒れるらしい。幸い雪は少ないようだが、頼むよほんとに。

 さてノンキに休めていいな、とお思いの方もおいでだろうが、そうは問屋が卸さない。勤務先が会社から自宅に換わったようなもので、あれこれと雑用はあるものだ。君子にふさわしく、朝から日暮れまで論語の勉強をするわけにはとてもまいりませぬ。

 午前中に市役所へ行って用を足したついでに、北大通をちょっと歩いてみた。雪がちらついているけれど、写真ではわかりにくいと思う。表通りはさすがに歩きやすいのだが、一歩脇道に入ると、歩道はかなりの部分がツルツルに凍っている。

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 裏通りをぶらぶら歩けば、なかなか渋い場所がないでもないけれど、足元がおぼつかないから、涙を飲んで早々に撤退した。これだから冬は運動不足になりがちなのである。

 石炭列車特集はやっと昭和45年までのドラフトができた。これから多少肉づけするわけだが、この作業には案外時間がかかる。われながらバカな仕事にとりかかったものだ。しかしこれこそぼくのいう遊び。

 今夜はささやかな飲み会があるから、特集記事の仕上げは明日以降になる。凍結路面をものともせずに夜のマチへ行くからには、一枚でも写真が撮れるといいのだが。

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December 20, 2011

Daily Oregraph: モノ増大の法則

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 掃除をせずに放っておくと部屋は必ずゴチャゴチャになり、しまいには居場所もなくなりかねないというのは、実は物理学の大法則でもあるらしい。

 コーヒーにクリームを入れてかきまぜたが最後、元の状態には決して戻らないという例を読んで、ぼくはなるほどと感心した。ゴミは捨てられるじゃないかとおっしゃる方もおいでだろうが、それは拾って捨てられるほど大きいゴミに限られるわけで、クリームの分子をひとつずつつまんで分離するのは到底無理な注文である。

 たとえゴミをためなくとも、生活する以上は家具や電化製品も必要だし、いくら学問ぎらいの鈍才といえども書物なしには暮らせまい。だからなにをどうしたって、室内空間は確実にせばまってくるわけだ。

 せめて不要のものを捨てようたって、なにしろ物理法則に逆らっての難事業だから、できればやりたくない。しかしゴミ屋敷の評判が立つのも体裁が悪いので、本日午前、ぼくは断然重い腰を上げたのである。

 えいやっとばかり、録りためたビデオカセット百数十本をほとんどすべてゴミ袋に押しこんだ。これまでにもビデオカセットは少しずつ処分してきたから、以前は二百本近くあったのではないだろうか。もうテープの時代は終わったのだし、どうせ再生して見ることもないのだから、せいせいした。

 ついでに雑誌・文庫本、パソコン関係の教科書なども少し処分したが、やはり本は捨てるのがつらい。読みもしないくせに、捨てるのがイヤなのである。だからこれまでずいぶん処分してきたつもりでも、さっぱり減っていないように思われる。そういえばLPレコードもそっくり残ったままだが、こいつばかりはどうしても捨てられない。

 かくして捨てても捨てても一向に空間は広がらず、貧しき家はモノであふれかえる一方なのだが、どんな法則にも例外はある、というよりも第二法則というのが適切だろうか。

 モノが増えるにしたがって預金は減る。決して元の状態には戻らないのが悲しい。消費税率をアップしようというのは、可能なかぎりモノを買うな、というお上の親心のあらわれであろうか。

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December 19, 2011

Daily Oregraph: 気嵐の候のご挨拶

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拝啓 釧路の港に気嵐(けあらし)の立つ頃となりましたが、皆様にはお変わりもなくお過ごしのこととお慶び申し上げます。平素は拙ブログをご愛読いただきまして、厚く御礼申し上げます。

 さて今年も間もなく暮れようとしております。つきましてはお歳暮のおしるしまでに、釧路丸三デパートより超高級ワインを配送させようと思ったのですが、あいにく丸三は閉店して今はなく、おまけにお送りしようにも皆様のご住所を存じ上げませぬゆえ、結局断念せざるをえなかったことは、小生のはなはだ遺憾とするところでございます。

 せめて微意をお酌み取りいただき、ワインは最寄りの酒店にてご自分でお買い求めいただければ幸いに存じます。いえ、もちろんワインでなければならぬなどという生意気なことを申し上げるつもりは毛頭ございません。純米大吟醸もおおいに結構、スコッチのシングルモルトなども悪い選択ではございません。まことに失礼ながら、ご予算によっては甲類焼酎のペットボトルなども選択肢に入ろうかと存じます。なにとぞお好みに応じてご勝手にお選びくださいますようお願い申し上げます。

 また余計なお世話かとは存じますが、肴の選択も大いにお悩みになるところでございましょう。これまた皆様の味覚にかなう珍味をてんでにお選びいただくとして、大食はいかにも見苦しく、よき肴をちょっぴりいただくのが粋というものかと愚考するところでございます。くれぐれも暴飲暴食はお慎みになり、この年末年始をお健やかにお過ごし下さいますよう、心よりお祈り申し上げます。

 なお今後とも倍旧のご指導に加えまして、ワイン、清酒、スコッチ、芋焼酎、山海の珍味など種類を問わず、惜しげもなく賜りますよう、伏してお願い申し上げます。

 まずは略儀ながら書中をもってご挨拶申し上げます。  敬具

 ……という、丁寧なんだか無礼なんだかわからぬ珍妙な手紙を書くつもりはなかった。つい悪いクセが出たのである。

 長年お世話になった会社を今月末で退職することとなり、今日が最後の出社となったので(28日にはちょっとだけ顔を出すが)、ほんとうはマジメに退職の挨拶を書くはずであった。

 思えばこれまで多くの方々のお世話になってきたものである。関係先のみなさまや会社の先輩・同僚はもちろん、友人諸君や読者のみなさまには心からお礼申し上げたい。

 今後とも倍旧の……おっと、これはもう書いたか(笑)。

 冗談をいっている場合じゃないですね。ほんとうに感謝しております。今後ともみなさまにはどうかよろしくお願い申し上げます。

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December 18, 2011

Daily Oregraph: タラ問答

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 これね、ずいぶん小さいけどマダラなんだよ。スーパーで一尾97円。小さいったってさ、97円だぜ。この不景気にありがたいじゃないか。そりゃあ、あんた、買うしかないよね。

 え、いくつ買ったって? ひとつだよ。驚くことはない。もう年だからね、それで十分なのさ。食べましたとも。鍋にしてね、さきほどぼくの腹中におさまったよ。これがほんとのたらふく。

 ご政道乱れて苛政はタラよりも猛し、というイヤな世の中だけど、貧乏人だって工夫しだいではリッチなご馳走を食えるんだから、けっしてあきらめちゃいけない。

 なあに、タラがなくたって、これからの季節、湯豆腐なんてのもオツなものだ。あんただって、そんなに腹が突き出ているんだし、肉は控えめにして、おおいに豆腐を食べちゃどうだい?

 え、なんだって、人にえらそうに説教するんなら、いっそ酒をやめちゃどうだって? へへへ、こいつばかりはやめられない。

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December 17, 2011

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (10)

 この連載も回を重ねて第10回となった。ぼくの個人的メモを兼ねているため、かなり細かい出来事まで記載している。しかし臨鉄オタクを養成するつもりはないので、興味のない部分は読み飛ばしていただければと思う。

 今回は昭和30年代全体を扱ったため、思わぬ長編になってしまった。写真だけでもごらんいただければ幸いである。

 戦後の復興も一段落して、運送の主力が蒸気機関車から次第にディーゼル機関車へと交替し、充実期に入ったことがわかる。昭和38年に旅客輸送が廃止されたことも時代の流れを感じさせる。

ディーゼル機関車時代へ

 昭和30年11月20日、埠頭岐線より分岐するスタンダード石油専用側線新設。

 昭和30年11月20日、札幌陸運局長に(客車・貨車の同時編成による)混合列車廃止認可を申請、11月30日に認可され、12月1日に廃止を実施した。

 昭和30年11月29日、本社附属倉庫を解体移築した埠頭6号上屋(463平米)が完成。

 昭和31年8月22日、臨港駅本屋の新築工事竣工。

 昭和31年10月30日、定時株主総会にて、沼尻~知人間護岸改良工事、埠頭構内舗装、排水溝新設、本社社屋・社宅改築等の資金に充当するため増資を議決、資本金8,000万円(総株数160万株)となった。

 昭和31年11月10日、春採~沼尻間線路一部変更工事竣工、同区間が123m短縮された。

 昭和32年10月知人町に初のコンクリートブロック2階建社宅1棟5戸が完成。


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   2008年3月29日撮影 補修工事中の南埠頭日通倉庫

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   2011年11月13日撮影 現在の日通倉庫

 昭和33年6月10日、老朽化のため埠頭1号上屋解体。解体上屋跡敷地は日本通運に貸付、同社倉庫を建設。

 ごらんのとおり、相当古い倉庫なので、いつごろできたのだろうと疑問に思っていた。もし昭和33年ころ建設したものだとすれば半世紀以上経過していることになるが、この外観からしてその可能性大である。

 昭和33年6月、皇太子殿下が釧路市に行啓。

 東栄小学校前の道路沿いに生徒が並び、車列を歓迎したような記憶があるのは、たぶんこのときのことだろう。思えばぼくも日通倉庫なみに年を取ったものである。

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   2005年1月14日撮影 春採駅構内のD101

 昭和33年11月、新造ディーゼル機関車1両(D101 日本車輌製。重量54トン、定格出力400馬力×2)を導入、12月1日より使用開始。これにより蒸気機関車にくらべ、経費は半減し、輸送力は倍増した。

 2005年1月に許可をいただいて撮影した写真の出番がやってきた。現在は使われていないようだが、この栄光の第一号ディーゼル機関車は、いまも春採駅構内で見ることができる。

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   2005年1月14日撮影 連接石炭車セキ

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   同上 密着式自動連接器

 昭和33年11月、国鉄払い下げの石炭車セキ10両を使用開始、以後セキ号車が増備されていった。

 このときは連接部の特徴など知らなかったけれど、貨車を撮るようになれば鉄ちゃん見習いの資格はいただけるだろうか。

 なおこの年7月中央埠頭建設工事がはじまった。同埠頭の完成は昭和43年だが、昭和36年には西側の1号バースが供用開始された。

 昭和34年9月30日、臨港駅構内釧路石炭販売会社貯炭場用側線(延長115m売炭線)新設工事竣工(これは後年廃止・撤去された)

 昭和34年10月、太平洋炭礦第5本坑道春採~興津貫通。

 昭和35年1月10日、東釧路~春採間2.854km選炭場踏切道第2種踏切改良工事竣工(踏切警手配置)

 昭和35年1月25日、取扱貨物増加にともない、入換作業時間の短縮をはかるため、春採駅西部構内に入換線(延長122m)を新設。

 昭和35年4月1日、沼尻駅側線を貨物取扱皆無のため撤去し、停留場に変更認可を申請、5月4日に認可され、6月1日実施。

 昭和35年5月、チリ地震津波により道東地方は大被害を受ける。

 昭和35年6月、南新埠頭の埋立工事が開始される。

 昭和35年12月、国鉄より石炭車セキ11両払い下げ。

 昭和36年5月24日、東釧路~春採間1.273kmに、緑ヶ岡停留場を、東釧路~城山間0.890kmに材木町停留場を開設し、旅客取扱いを開始した。

 昭和36年7月30日、埠頭3号上屋を移築し、入舟町1号上屋とした。上屋跡地は小野田セメントサイロ敷地とした。

 昭和36年11月、釧路空港開港。

 昭和36年12月、国鉄釧路駅の新駅舎が完成。 


 現釧路駅。いわゆる民衆駅である。

 昭和36年8月10日、東釧路~臨港間にタブレット閉塞器を設置し、票券閉塞式からタブレット閉塞式に変更実施した。

 閉塞とは衝突防止のため、ひとつの閉塞区間に同時にふたつ以上の列車を入れぬように安全を確保するシステムのこと。詳細については「閉塞」を参照のこと。

 昭和37年8月、太平洋炭礦春採・興津両坑統合なる。

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 昭和37年9月、新造ディーゼル機関車1両(D201 日本車輌製。重量50トン、定格出力300馬力×2)を導入、10月9日より使用開始。

 残念ながらD201の写真は撮れなかったので、『臨鉄60年の軌跡』から拝借した。同書の年表(昭和58年まで記載)には廃車したという記事はみあたらないが、昭和41年11月に導入したD501は昭和54年2月に廃車されたと記録されているので、時期は不明だがD201も廃車になったのかもしれない。機会があったら確認したい。

 昭和37年11月、倉庫業許可を申請する。

 昭和38年4月1日、希望退職募集。応募者数19名。


 詳細は記録されていないが、この年10月に旅客取扱いを廃止したことと関係があるのではないか(もし見当ちがいならお詫びしたい)。


 昭和38年4月、石炭車セキ2両国鉄より払い下げ。

 昭和38年7月1日、(国鉄とは別に臨港鉄道の)東釧路駅開設、釧路臨港鉄道所属線における列車運転取扱業務を開始。

 昭和38年10月31日、旅客・手荷物・小荷物の運輸営業を廃止。これにより大正15年2月から37年に渡って運行された旅客列車が姿を消した。


 これも詳細は説明されていないが、背景にはもちろん旅客の減少があったにちがいない。これまた宿題にしておこう。

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   千代田汽船「雄鵬丸」
   『船体写真集』(昭和42年 日本郵船株式会社)より

 昭和38年、釧路南埠頭に初めて石炭専用船が接岸。

 船名やトン数が記載されていないのではっきりしたことはいえないけれど、たぶん写真のようにデリックなどの荷役装置を持たない専用船であろう。

 上の写真の雄鵬丸と同型(3,300~3,500総トン)と思われる千代田内航汽船運航の菱陽丸(昭和40年竣工)と八千代丸(昭和39年竣工)は昭和50年代釧路にたびたび入港して石炭を積んでいた。

 ぼくが南埠頭の石炭ローダー事務所におじゃましたのはそのころである。当時事務所では一年中ルンペンストーブが焚かれていたことを思い出す。本船では手仕舞のときに酒がふるまわれたこともなつかしい思い出である。いまよりも万事につけて余裕のある時代であった。

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   2011年12月12日撮影 現在の臨鉄倉庫群(入舟岸壁)

 昭和39年2月5日、倉庫業認可、入舟町1号上屋を営業倉庫に改装し、3月5日開業。

 未確認だが、写真の倉庫には港町倉庫が含まれているのかもしれない。

 昭和39年2月、蒸気機関車3両(7号、10号、11号)廃車。石炭車セラ9両および客車2両廃車。


 蒸気機関車は翌昭和40年にも3両廃車となっている。

 昭和39年6月、石炭車セキ2両を国鉄より払い下げ。

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   2011年8月29日撮影 南新埠頭

 昭和39年6月、南新埠頭埋立岸壁工事竣工(56,200平米。太平洋興発所有)

 南新埠頭を撮ろうなどというのはよほどの変わり者にちがいなく、ぼくもめったにレンズを向けたことがない。適当な写真がなかったので、すでに当ブログに掲載ずみのものを再利用した。

 なお写真に見える川洋丸はときどき南埠頭で石炭を積んでいる。上のほうで触れた石炭専用船と同型。


 昭和39年7月、ディーゼルカー(キハ1001号)を南部鉄道へ譲渡。

 昭和39年8月10日、釧路臨港埠頭運輸株式会社設立(資本金500万円。全額臨鉄出資)。

 昭和39年8月31日、機関庫改築工事竣工。


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   2005年1月14日撮影 春採駅構内の軌道モーターカー

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   2000年7月23日撮影  保線作業(米町付近)

 昭和39年9月、保線用モーターカー導入。

 当時のモーターカーがどんなものかはわからないけれど、春採駅構内でみかけた軌道モーターカーと、実際の保線作業に使われていた車両の写真を掲載しておく。

 せっかく春採駅で写真を撮らせていただいたのに、当時は予備知識がゼロだったから、いろいろお聞きすることができなかった。準備なしに現場に行ってもまともな取材はできないということである。

 昭和39年10月10日、東京オリンピック開会式。

 昭和39年10月18日、知人駅信号保安装置を第1種電気継電連動装置に変更する工事が竣工、10月19日使用開始。

 昭和39年11月20日、埠頭岐線より分岐する北日本木材市場専用側線新設工事竣工(総延長535m)。

 昭和39年11月31日、春採駅第1種電気継電連動装置新設工事竣工、12月1日使用開始。


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   2005年1月14日撮影 春採駅構内のD401

 昭和39年12月4日、11月に導入した新造ディーゼル機関車2両(日本車輌製 D301およびD401)を使用開始。

 D301は写真を撮れなかったので(たぶん廃車?)、D201同様『臨鉄60年の軌跡』から写真を転載させていただいた。

 こうして蒸気機関車は昭和30年代に主役をしりぞき、ディーゼル機関車の時代が到来したのである。

(つづく)

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December 16, 2011

Daily Oregraph: 【特集】いなり小路いまむかし

 トロチコさんがコメントにお書きになっていた「いなり小路」の写真を一挙公開することにした。

 過去に掲載した写真も含まれていることをあらかじめお断りしておきたい。また写真をあらためて見直してみると、いかにもヘボではあるが(笑)、どうかご容赦いただきたいと思う。

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 1970年代前半~中頃のいなり小路。いわゆるハーフ判のネガなので解像度はいまひとつだが、繁ちゃん食堂の看板を等倍でチェックすると、

 
豚丼 2?0円    カレーライス 130円   カツ丼 2?0円
 玉子丼 150円  うどん 60(?)円


などと読み取れる。たかが看板とバカにせず、ちゃんと読めるように記録すべきであった。反省。

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   以上2000年8月5日撮影

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   2002年4月27日撮影

 右手に見えるまんじゅう屋さんは、昔はたしか「大島まんじゅう」という店名だったと思う。もちろん持ち帰りもできたが、店内で熱いほうじ茶を飲みながらアンマンを食べるのが楽しみだった。

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   2002年7月27日撮影

 お店には入れ替わりがあったけれど、2002年までは稲荷小路は健在であった。

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   2003年6月2日撮影

 小路はほとんど取り壊され、駐車場ビルの建設が行われている。

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   2006年10月29日撮影

 東側から見るとよくわからないが……

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   2007年5月11日撮影

西側から見るとこのとおり。いなり小路は跡形もなく消滅してしまった。効果のほども疑われる再開発によって、釧路は魅力ある小路をひとつ失ったのである。

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   2007年9月6日撮影

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   2011年1月30日撮影

 かくして「いなり小路」の看板と無趣味な空間だけが虚しく残ることになったのである。こどもの頃この小路で「おかめ」の超固ゆでラーメンを食べた思い出のあるぼくは、町にも市民の心にもぽっかり穴が開いたのではないかと思う。

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December 15, 2011

Daily Oregraph: 冬のイヌホオズキ

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 いったんは観察終了を宣言したけれど、ここ数日の凍てついた道路を見ているうちに、どうしてもイヌホオズキのその後を確かめたくなった。それを物好きというのは身もふたもない話であって、自分でいうのもなんだが(笑)、あっぱれ科学的精神の発露とほめていただきたいところである。

 絶世の美女だっていつかは必ず梅干し婆さんになるように、西港のイヌホオズキもこんなさびしい姿になってしまった。葉も茎も実もすべて褐色に変じ、濃淡にいささかのちがいが認められるだけである。

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 しかし美はどこにひそんでいるかわからないものだ。注意深く観察する人はきっと報われる。

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December 12, 2011

Daily Oregraph: 入舟岸壁へ

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 港町にて。水面まで青空という上天気であった。

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 本日の目的は入舟岸壁にある臨鉄倉庫の撮影。物好きここにきわまれり、というところだが、これも石炭列車シリーズに関連する取材の一環なのである。

 写真のあたりは地図上では港町に属するのだが、港湾施設名称でいえば、正面の岸壁は港町物揚場(延長50m -4m)、角を曲がって巡視船「えりも」の接岸している部分は入舟-7.5m岸壁(延長130m)にあたる。

 入舟岸壁はさらに幣舞橋に向かって大町岸壁までつづき、上記-7.5m岸壁を合わせれば、総延長は835mにも及ぶ。

 写真右手に見える倉庫群が臨鉄倉庫である。わざわざ撮影したものの、うまく写真を利用できるかどうかはわからない。

 ここで倉庫の写真をお見せしたってしようがないから、かわりにおまけとして(?)、10日の皆既月食と石炭列車を組み合わせた画像を掲載しておく。実際にはこう見えることはありえない。あくまでもお遊びね。

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December 11, 2011

Daily Oregraph: 戦時中の雲仙丸

 先日写真をお目にかけた雲仙丸について、『日本郵船戦時船史』(昭和46年初版 平成7年復刻版 日本郵船株式会社発行)の記事をごく簡単にまとめてご紹介したい。釧路に縁のある一隻の船の歴史をたどることが、戦争について考えるひとつのきっかけになるにちがいないと思うからである。

 この『戦時船史』は上下2巻の大冊である。たいへん貴重な記録であることはもちろんだが、読み物としてもすぐれており、一般の読者の目にふれにくいことは、まことに残念というほかない。もし機会があったら、ぜひお読みになるようおすすめしたい。

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   雲仙丸-『日本郵船戦時船史 下巻』より

 まずは雲仙丸の主なデータについて。

 船  種   旅客船
 総トン数   3,140トン
 長  さ    92.54米
 主  機   レシプロ 一基  2,100馬力
 速  力   13ノット
 竣  工   昭和17年10月10日
 建造所   三菱重工業 横浜船渠
 徴用種別  船舶運営会使用船
 備  考   昭和29年8月20日 運輸省航海訓練所へ売却

 当時の船舶の船体各部名称については、下図をご参照いただきたい。

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   『日本郵船戦時船史 下巻』より

 さて

 (当社)保有船舶の大部分は軍用に徴せられた。当社海陸従業員にしてあるいは応召中戦死し、あるいは業務中殉職し、また戦災によって非業の死を遂げたもの、その数合計五、三一二名の多きに達した。戦禍による当社喪失船は一七二隻、一〇三万総屯に達し、創業以来苦心建設した大船隊はほとんど壊滅に帰した。-『七十年史』(昭和31年 日本郵船株式会社)

という悲惨な状況で戦後を迎えたわけだが、雲仙丸は沈没を免れ、『戦時船史』では「残存船」として分類されている。しかし本船も戦争海難に遭遇しなかったわけではない。

 以下の引用・要約は『日本郵船戦時船史(下巻)』によるが、原文は無駄のない文章なので、要約の大部分が丸写しに近くなったことをお断りするとともにお詫びしておきたい。

 本船は当初門司~大連航路に就航する予定であったが、竣工後は門司~上海航路の貨客輸送に従事し、昭和18年中ごろからは新潟~羅津(朝鮮半島北東部)間の航路に就いた。

 第一回目の遭難は、

 昭和十八年十月一日午後六時十分ごろ、日本海のほぼ中央で、魚雷が右舷中央部に当たった。しかしこのときは不発で機関室にわずかに浸水して多少の石炭が流れ出す程度であったので、雲仙丸は暗やみを利用して全速で逃走し、翌朝早々に羅津に入港した。関釜連絡船崑崙丸が敵潜水艦の魚雷によって沈没し、多数の犠牲者を出したのは、雲仙丸が遭難して四日後だった。

 その後本船はいったん新潟~樺太間の航路に転じたのち、ふたたび新潟~羅津間の航路に復帰し、敦賀~清津(朝鮮半島北東部)間航路にも就航した。昭和20年当時は敦賀~清津~羅津航路に就航していた。

 第二回目の遭難は昭和二十年六月のことであった。

 それまで本船は日没前に敦賀を出て、越前岬で護衛艦と分かれ、夜陰に乗じて一気に日本海を抜けて北朝鮮へ向かうコースを取っていた。しかし舞鶴鎮守府に呼び出された船長は、コースを変更して山陰の沿岸を通り、釜山沖に出て、朝鮮半島東沿岸を北上するよう命令された。

 船長は潜水艦の出没位置から考えて、沿岸コースはむしろ危険と判断し、意見を具申したのだが認められなかった。六月二十三日、本船は乗客千名以上と軍需貨物を満載して敦賀を出港したが、船長の不安は的中することとなった。

 夜になって経ヶ岬を通過するころB29のものらしき爆音が聞こえてまもなく、境港方面の空に照明弾が輝き、船長が非常呼集のベルを押すのとほとんど同時に、地蔵岬付近らしき海岸で爆発が起こり閃光を放った。照明弾によって誘導された潜水艦の発射した魚雷がそれて、海岸で爆発したものと判断した船長は、境港外に待避し仮泊、夜明けを待った。

 六月二十四日未明、抜錨して航行を開始してまもなく、昨夜B29が付近に投下した時限機雷が右舷後尾で爆発し、海水がシャフト・トンネルに浸入したが、水密扉を閉鎖して食い止めることができた。

 船長は乗客の生命を優先して、断然航海の続行を中止し、境港で乗客を降ろすと、いったん敦賀に戻って貨物をすべて揚陸して、(修繕のため)富山県東岩瀬の日本海ドックへ向かった。しかしその途中、極力沿岸航路を取っているうち、石川県羽咋の砂浜に坐洲してしまった。本船が自力で離洲するまでに要した約二週間のうちに、敦賀市は七月十三日の大空襲によって焦土と化した。

 戦後本船は引き揚げ輸送に従事し、昭和二十一年十二月五日、ソ連地区からの引き揚げ船第一船として、樺太残留一般邦人九百二十八人を乗せて函館に帰港している。三千総トン級の船にこれだけの人数を乗せたのだから、船艙はすべて超満員で、乗客には粗食を供するのが精一杯だったという。

 ちなみに昭和二十年七月四日現在の乗組員名簿によれば、本船の乗組員は、船長以下役員二十一人、甲板部十八人、機関部十七人、事務部(司厨員等)二十六人の合計八十二人であった。

 本船は昭和二十四年四月まで船舶運営会使用船であったが、昭和二十五年四月には釧路港に初入港し、釧路~東京航路に就航したことはすでに述べたとおりである。

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December 10, 2011

Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (9)

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   2011年12月3日撮影 春採駅踏切(駅舎はこの左手)

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   2011年12月3日撮影 踏切の右に春採駅が見える

 南側の丘から踏切方面を撮影したもの。南北を丘に挟まれた地形であることがわかる。なお踏切左手に見える機関車は、青が D801、オレンジ色が D701型である。

 今回の記事は昭和26年から29年まで。


戦後の復興
(2)

 昭和26年3月28日、運輸省の地方鉄道運転規則にもとづき、釧路臨港鉄道運転取扱心得を制定。

 昭和26年6月、太平洋炭礦全面海底下採炭へ移行。

 昭和26年8月より社員の誕生祝が催され、社長の祝言と菓子折が贈られた。


 一見地味なニュースのようだが、実は大きな意味があるように思う。戦後の混乱期が一段落し、人々の気持に少し余裕ができたことをうかがわせるからだ。

 昭和26年9月8日、日米安保条約調印。

 この条約が締結されたのは昭和30年1月である。それに反対して、いわゆる60年安保闘争(立場によっては「闘争」といわず「騒動」というらしい)が展開されたことはご存じのとおり。

 昭和26年9月22日、釧路港重要港湾に指定される。

 ぼくははじめて知ったのだが、戦後釧路港は外国貿易不振を理由に、一時不開港に格下げになる危機を迎えたらしい。不開港になれば検疫や税関の入港手続きができなくなるから、これは大ピンチである。その危機を回避して重要港湾に指定されたことの意義は大きい。

 昭和26年9月、国鉄より客車1両(ナハ1号 定員110名)を譲り受けて使用を開始(この客車は昭和28年11月17日、ディーゼル動車キハ1001号に改装された)。

 昭和26年10月、埠頭3号上屋(826平米)1棟が完成。

 昭和27年1月28日、国鉄払い下げの蒸気機関車1両(10号機関車と同型)を11号機関車として導入、2月より使用開始。

 昭和27年3月4日午前10時過ぎ、十勝沖地震(M8.3)が発生、東釧路~春採間2.5km付近および春採~知人間5.4km付近の線路・道床が被害を受けた。


 当地方は地震多発地帯だが、この地震は津波をともない、

 死者8人、負傷者36人を出し、津波に襲われる恐怖感から、幣舞橋を通り高台へ避難する3万人もの市民で大混乱になった。施設損害では、特に釧路川市設魚揚場岸壁、北埠頭の港湾施設を中心とする公共施設の打撃が甚大だった。-『釧路港開港百年記念誌』(平成12年 釧路新聞社)

 特に甚大な被害を受けたのが、昭和25年12月に完成したばかりの北埠頭であった。また、

 太平洋炭砿ではズリ山が崩れ炭住二戸が一気に押しつぶされた。学校などの集合煙筒も落下した。火災が発生し、刑務所の大塀も大半くずれた。-『目で見る釧路の歴史』(平成4年 釧路市)


 なお『目で見る釧路の歴史』によれば、地震による死者は16人、負傷者30人で、『釧路港開港百年記念誌』の記述と大きく食いちがっている。20世紀の事件にしてかくのごとし。本気で歴史の勉強をするつもりなら、多くの資料を参照して確認せねばならぬことがこれからもわかる。

 余計な話だけれど、邪馬台国などはまともな文献が『魏志倭人伝』しかないのだから、画期的な考古学的発見でもないかぎり、あと百年かかっても決着はつくまいと思う。


 昭和27年9月30日、東釧路~城山間1.635kmより分岐する加藤ベニヤ工場専用側線(延長172m)新設。

 昭和27年10月25日、知人~臨港間8.260kmより分岐する東栄工業工場専用側線(延長67m)新設。


 これらの側線はのちに撤去され、現在は存在しない。

 昭和27年12月1日、知人駅本屋新築工事竣工。

 昭和28年5月1日、東釧路~春採間2.5kmに永住町停留所を新設して旅客取扱いを開始。


 いま永住町という町名はないが、地図には春採7丁目に「永住住宅」が、武佐1丁目にはくしろバスの「永住」バス停留所が記載されている。

 昭和28年5月18日、定時株主総会において、機関車増強・埠頭上屋新築等の資金に充当するため、1,000万円の増資を議決、資本金2,000万円(総株数40万株)となる。

 昭和28年6月、国鉄より無蓋貨車トム5両払い下げ。

 昭和28年11月27日、ディーゼルカー(キハ1001号)運転開始。これは昭和26年9月に国鉄より譲り受けた客車1両(ナハ1号 定員110名)に120馬力エンジンとトルクコンバーターを取り付けて改造したものである。

 昭和28年11月30日、埠頭新5号上屋(331平米)が完成。小野田セメントサイロ・包装工場敷地にするため、旧5号上屋は撤去された。

 昭和29年3月24日、沼尻踏切道保安強化のため踏切警手を配置。

 これは記憶にはないけれど、年表によると、沼尻の踏切遮断機が電動式に変更されたのは昭和41年5月11日だから、実際はぼくも手動遮断機を目にしていた可能性が高い。たぶん忘れてしまったのだろう。

 昭和29年4月30日、定時株主総会において、無蓋貨車増備・ディーゼル動車改造・社宅買取等の資金に充当するため、2,000万円の増資を議決、資本金4,000万円(総株数80万株)となる。

 昭和29年8月16日、天皇・皇后釧路市に行幸。

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      2008年1月20撮影 竹老園の蘭切りソバ

 昭和天皇皇后両陛下が蘭切りそばを召し上がり、天皇がお代わりされたというのはこのときである。ただし竹老園のサイトによれば、お食事の場所は六園荘であった。

 だからどうした、といわれればそれまでだが、国外はともかく国内に平和が到来したことを実感させるニュースではあると思う。

 さてこうして年表をざっと追ってみるだけでも、戦災にあった埠頭の再建や車両の増強など、戦後の復興がほぼ完了し、昭和30年を迎えたことがわかる。

 次回からは昭和30年代に入り、2005年1月に春採駅で撮影した写真にもいよいよ出番がやってくる。

(つづく)

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December 09, 2011

Daily Oregraph: 終末の晩餐

 一夜明けて……二日酔いにならなかったのはありがたい。結局は酒量が減った、つまり飲めなくなったせいなのだろう。

 より少ない酒で酔うのは経済的だし、アル中への道をまっしぐらに歩むよりはマシなのだから、もちろん悲しむには及ばない。

 食事だってそうだ。いつの間にかたくさん食べられなくなってくるのである。昔は無芸大食といって自嘲したものだが、最近では大食は自慢すべきことらしく、そちら系のブログをたくさん見かける。

 みなさんほれぼれするような食べっぷりだけど、野坂昭如の
終末のタンゴじゃないが、

 
どんな大食にも 必ず終わりはくる

わけだから、肉体の衰えに直面しても狼狽せぬよう、いまから心の準備を怠らぬようおすすめしたい。

 ではもとヤセの大食い、いまはグルメ失格のぼくが、昨夜の料理をご紹介しよう。

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 さよう、年を取るとね、刺身もこれが適量なんだよ。大皿に山盛りというのは豪華なれど、余はそんなにいりませぬ。

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 茶碗蒸しはうまいものだが、写真には撮りにくい。熱いうちにふたを開ければ、湯気が立ってマシに見えたかもしれない。まあ、これをうまそうに撮るのがプロというものなのであろう。

 とても上手に撮れそうもないから、ぼくはさっさと食べてしまった。

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 アナゴの天ぷら。これも適量、上品なものである。

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 ババガレイの煮つけ。ババガレイはたいていもっと大きく、身も分厚いのだが、腹が膨れぬよう配慮して、小ぶりなものを選んだのは店主の見識である。

 このサイズでも食べ応えは十分、大型のをドンと出されたら持てあましたにちがいない。

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 アンキモ。酒の肴としては極上である。これもちょっぴりいただくのがいい。これを丼いっぱい出されたら、せっかくうまいものもまずく見えるにちがいない。

 このあと握り鮨がたしか六貫ほどと赤出汁一椀。握りもシャリの量は少な目だったから、すべて食べ終わって腹八分目。料理のほかに酒も飲むわけだし、足し算すればちょうどいい分量であった。

 なお味についてあれこれ書かなかったのは、見た目は写真で間に合うとしても、味を伝えるのは至難のわざだからである。ああ、うまかった、ごちそうさま、といっておこう。

 料理も上品なら、客もお上品(笑)、まずは上出来の忘年会であった。

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December 08, 2011

Daily Oregraph: 道路オンザロック

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 釧路は雪が少なくていいけれど、日の当たらぬ場所はこのとおり、道路がテカテカに凍りついてしまうのが玉にきずである。しかし酔っ払いは凍結路面などものともせずに前進するのだ。

 今夜は会社の忘年会。日付の変わらぬうちに帰宅したのは上出来だけど、さすがにキーボードのろれつが回らないから、レポートは明日にしよう。めずらしく料理の写真をきちんと撮ったつもりなのに、いまチェックしてみたら、最後の一品だけ撮り忘れていた。

 どんなご馳走を食べたのか……待たれよ、次号。

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December 07, 2011

Daily Oregraph: 雲仙丸の写真

 今日はひと休みして、昔の船の話題でも。

 石炭列車の記事第8回(12月5日)でも触れたように、日本郵船の釧路~東京(芝浦)定期貨客船雲仙丸(3,140総トン)は、昭和25年に初入港したが、

 釧路-東京間月3回の運航で、釧路からの乗客は月平均300人前後、貨物は木材、洋紙、パルプ、海産物、魚油、雑穀、でんぷんなどだった。しかし、1954年(昭和29年)同船は運輸省航海訓練所の練習船となり、市民に惜しまれつつ、その役目を終えたのである。-釧路港開港百年誌 p. 138(平成12年 釧路新聞社刊)

 同書の写真によれば、本船は北埠頭西側岸壁に接岸していた。

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 上の写真は、会社の古いアルバムにあったものである。左は最後の航海のときのもの、右は(たぶん練習船として改装され)銀河丸と改名後に入港したときのもの。

 どちらも画面のサイズはわずか52ミリ四方という小さなもので、印画紙でいえば名刺判にプリントしたものだろうか。もっと大きいものが残っていないのは残念である。しかも撮影位置とレンズの画角のせいで、写真左には船体が半分しかおさまっていない。

 あまりにも残念だから、日本郵船の『船体写真集』(昭和42年刊)に掲載されている写真をごらんいただきたい。

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 本書によれば、
九州、大連線用として昭和17年10月に建造した優秀船であり、なるほどたいへん美しい船である。第一級の芸術品といってもよいのではないだろうか。大型豪華客船もいいけれど、ぼくなどはこちらのほうに心が惹かれる。

 さてせっかくアルバムからみつけた写真だから、スキャナで読み取って記念に残しておくことにしよう。実物よりずっと大きいサイズで鑑賞できるのはデジタルの威力。

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 ぼくの推測だが、下の写真で手を振っているのはNYK釧路出張所(当時は出張所があった)の女子事務員。通船に乗って沖へ出迎えに来たところを撮ったものだろう。

 当時はみなさん純情だったのである。ちょっと胸がジーンとするいい写真だと思う。

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December 05, 2011

Daily Oregraph: またしても雪

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 天気予報が外れ、またしても雪になった。本降りになってきたので積もるかと思ったら、午後から晴れたので一安心。雪かきなんて冗談じゃないからね。

 臨港鉄道の記事はやっと昭和25年の分まで掲載することができたけれど、『臨鉄60年の軌跡』の記録は昭和58年までだから、先はまだ長い。しかし海岸を通る列車の音を聞きながら育った市民の一人としては、いまさら後には引けないのである。

 年表式に事実を並べるのはどんなものかとも思ったが、それはそれで見えてくるものがある。脇道にそれるのはほどほどにして一本のレールに沿って進むのも、郷土史のおさらいとしては悪くないかもしれない。

 撮り鉄、乗り鉄に加えて、読み鉄(笑)というジャンルもあっていいだろう。2005年1月に春採駅で撮った写真にも、いずれ出番がくるはずである。

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Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (8)

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   2002年6月2日撮影 弥生中学校下 前方左中村水産跡

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   2007年5月3日撮影 沼尻川鉄橋通過中

 今回は昭和21年から25年までの戦後復興期を扱う。復興期は一応昭和30年頃までと考えるべきだし、『臨鉄60年の軌跡』でもその頃を一区切りとしている。しかしやはり昭和25年はひとつの節目だろうと思うのである。

戦後の復興

 昭和21年1月10日、前年にひきつづき旅客運賃改定を申請、3月1日実施された(10銭~40銭から20銭~1円10銭へ)。

 昭和19年8月以来の出炭停止に加え、空襲により南埠頭上屋5棟が焼失したため貨物輸送量が激減し、経営は不振をきわめていた。さらに戦後の猛烈なインフレに見舞われたのである。

 昭和21年11月、太平洋炭礦別保坑が再開される。

 これは昭和20年9月の春採坑再開に次ぐものである。

 昭和22年1月23日、旅客運賃変更認可を申請。1月31日認可、3月1日実施(20銭~1円10銭から50銭~1円50銭)。

 昭和22年3月、石炭運賃を除く貨物運賃を倍額値上げ、さらに同年7月8日には大貨物営業粁程を20割増から70割増へ変更。

 昭和22年4月25日、旅客運賃変更認可を申請。7月5日認可、7月8日実施(50銭~1円50銭から1円~6円50銭)。


 このあたり、インフレの進行のすさまじさがよくわかるので、旅客運賃改定については、煩をいとわず記載する。

 昭和22年8月、渡島海岸鉄道より客車一両(キハ101号 定員54名 機関を取り外し、蒸気機関車牽引)を譲り受け使用開始。

 昭和22年8月、太平洋炭礦興津坑の開削に着手。

 昭和22年10月、太平洋炭礦桂恋坑を開坑(昭和32年閉鎖)。

 
太平洋炭礦もまた着実に復興の道を歩んでいた。

 昭和23年1月30日、埠頭1号上屋(1,653平米)が復旧・完成。

 昭和22年~24年の3年間、東京の食料危機に対処するため、馬鈴薯(総計53,994トン)および木炭(総計48,436トン)を貨車輸送により南埠頭に集積し、海上輸送した。

 これは新知識。北海道の底力を感じるエピソードである。

 昭和23年2月16日、臨時株主総会を開催し、復旧上屋建設にともなう建設費借入金償還資金に充当するため、資本金を500万円(総株数10万株)に増加。

 昭和23年5月7日、旅客運賃変更認可実施(1円~6円50銭から3円~18円)。

 昭和24年5月5日、旅客運賃変更認可実施(3円~18円から5円~15円)。

 昭和24年6月16日、埠頭上屋5号上屋(608平米)新築工事竣工。つづいて6月25日には本社附属倉庫(463平米)新築工事竣工。

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2011年11月26日撮影 紫雲台から見た興津のズリ山

 昭和24年8月、太平洋炭礦興津坑を開坑、出炭を開始した。

 昭和24年9月28日、東釧路~城山間1.880kmより分岐する長谷川木工工場専用側線(延長72m)新設。


 急ピッチで復興の進む様子がわかる。


 昭和24年11月、太平洋炭礦別保坑を閉鎖、春採海底炭採掘に集約。

 昭和24年11月、別保~東釧路~春採間に、太平洋炭礦春採坑に通勤する礦員の専用通勤列車(国鉄客車2両編成)の運転を開始。


 別保坑の閉鎖にともない、春採への通勤専用列車を開始したのである。このあたりの歴史については、ぼくもそうだったが、もはや知らない市民のほうが多いのではないだろうか。

 昭和25年1月1日、営業粁程70割増を廃止し、実粁程を実施、4月1日には貨物運賃併算制に変更。

 昭和25年4月1日、旅客運賃変更認可実施(5円~15円から10円~20円)。

 昭和25年4月、船舶の民営還元実施。


 戦後日本の船舶はGHQの管理下に置かれ、船舶運営会によって配船されていたが、

 24年9月1日800総トン未満の小型船舶の民営還元がなされ(中略)、さらに25年4月1日を期して帰還輸送その他特殊用途の船舶を除き全面的な民営還元となった。対象船舶は601隻7万5千総トンである。-『三ツ輪運輸五十五年史』 p. 74

 昭和25年には、4月には日本郵船の貨客船雲仙丸(釧路~芝浦定期)が初入港し、5月には戦後初の外航船が入港するなどの動きがあった。


 昭和25年6月25日、朝鮮戦争勃発。


 この不幸な戦争によって特需が生じ、昭和25年の太平洋炭礦の出炭量(667,500トン)は、戦前の最高を記録した昭和16年のそれ(669,316トン)にほぼ回復したのであった(『釧路叢書 春採湖』による)。

 昭和25年8月25日、臨時株主総会を開催、機関車・客車増備、社宅新築等の資金に充当するため、資本金を1,000万円(総株数20万株)とする。

 昭和25年12月、北埠頭が完成。

 昭和25年11月20日、国鉄払い下げの蒸気機関車(英国製2120.0C 1)1両を10号機関車として導入、12月より使用開始。


 以上ざっと見ただけでも、昭和25年頃が戦後史のひとつの節目であったことはまちがいないと思う。朝鮮戦争はもちろんだが、復興期の釧路港湾業界の動きなど、酔っ払いの手に余ることはすでに申し上げたとおりだから、ここでは深入りしない。

(つづく)

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December 02, 2011

Daily Oregraph: イヌホオズキよさらば

 釧路西港のイヌホオズキについては、11月9日までに何度かご報告してきた。もう時期も終わったから、いいかげんに観察をやめたんじゃないかとお思いの方もおいでだろう。

 とんでもない! この種の記録こそ一文にもならぬ写真を撮るアマチュアの出番なのだから、やめるわけにはいかないのである。

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 11月15日。 前回の写真と比較すれば、ひどい葉のしおれようであることがわかる。

 11月9日から14日までの平均気温は4.8度~7.4度だったのに、15日は1.6度と急激に低下したせいもあるのだろう。

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 11月17日。平均気温1.0度。まだ青いままの実がいくつも残っている。

 このころになると、気温の低下によって、釧路では実がすべて熟す前に枯れてしまうのではないかと思うようになった。

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 11月30日。この日平均気温ははじめてマイナスに転じ、-0.9度。もはや見る影もない。

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 12月1日。平均気温-3.5度。やはり青い実を残したまま枯れてしまうという予想は正しかった。この日をもって、イヌホオズキ観察の終了を宣言することにした。

 ぼくの会社主義リアリズムも、間もなく退職だから、これでおしまい。とはいえ、根が散文的な男ゆえ、今後とも似たような写真しか撮れないだろう。

 え、会社がひっくり返って社会主義リアリズムに? それはないと思うよ(笑)。

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Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (7)

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 これは父の遺した写真で、ネガアルバムには「1955(昭和30)年3月31日 釧路港 南」とメモされている。

 当時釧路港の商船岸壁は南埠頭と北埠頭だけであった。景色から見て北埠頭ではありえないし、住人が南北をまちがえるはずはない。写真の左手に倉庫が見えるところからも南埠頭にちがいない。

 だとすれば、背景に写っている一見桟橋状のものはなんだろうか? 南防波堤に関係するなんらかの工事が行われていたのかもしれない。興味があるので宿題にしておこう。

 なお位置関係から考えて、写真の會福丸は石炭ではなく一般雑貨を荷役中ではないかと思う。

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   2007年8月25日撮影 南防波堤から見た南埠頭

 さて今回は戦時中から太平洋戦争終結までの時期を扱う。


戦時下の臨港鉄道

 昭和17年4月、太平洋炭礦知人貯炭場2号高架桟橋(コンクリート製 延長132m)完成。

 現在高架桟橋がふたつあることは、第2回に掲載した写真をごらんになればわかるとおりである。

 ここでは太平洋戦争の戦史をあらためて勉強するつもりも余裕もないが、昭和17年6月、ミッドウェイ海戦に敗れたことにより大勢は決した。かりにこの海戦に勝利したところで、もともと勝ち目のある戦争ではなかった。

 昭和17年10月20日、真砂町停留場廃止。

 昭和18年3月、蒸気機関車(8号)を新造・導入。

 昭和18年7月、時刻を24時間制と定める。

 鉄道の世界は最初から24時間制だと思いこんでいたから、これは新知識である。

 戦局の進展により船腹が不足し、釧路港では約5割減となり、石炭の積み出しが激減した。

 昭和19年8月11日、閣議決定による転換命令により、太平洋炭礦春採坑は保坑、別保坑は休坑となる。そのため出炭停止となり、鉄道経営上打撃を受けることとなった。

 増収策として昭和18年7月には10割増、昭和19 年10月には20割増の大貨物営業粁程割増認可を申請したが、認可されたのは戦後の昭和20年12月8日、実施されたのは昭和21年4月1日であった。

 また昭和19年12月15日より、従来無料取扱いであった埠頭側線・陸海軍専用線発着の貨物に対し、側線使用料(1トンにつき20銭)を設定実施、昭和20年4月1日には旅客運賃が5銭~30銭から10銭~40銭に改定された。

 ようするに戦局は当初の強気で楽観的な見通しどおりには進展せず、次第に敗色濃厚になっていったことが、上の記述からもうかがえる。

 脇道に入ることは極力避けるつもりだったが、せっかくの機会だから、ここで日本海運界の状況について概観しておこう。


太平洋戦争下の海運界


 この節のうち茶色で示した部分は、すべて『日本郵船株式会社百年史』(昭和63年)の要約であることを最初にお断りしておく。

 開戦時の100総トン以上の鋼船は、大連・中国など外地の置籍船を含めて、総計で2,578隻、650万総トンであり、世界第3位を誇っていた。

 そのうち陸海軍に徴用された船舶を除く1528隻、243.6万総トンは、昭和17年4月以降、日船舶運営会の管轄のもとに、ほぼ完全な国家管理に移行した。そのうち官庁用船と沿岸航路定期船などを差し引くと、物資動員計画対象船は584隻、177.8万総トンに過ぎず、船腹はおおいに不足したのである。


 しかも作戦が一段落すれば陸海軍から約110万総トン返還されるはずが、戦局の悪化とともに、返還どころか41万総トンが追徴されることとなった。


 当初の見通しが楽観的であったことはこれからもわかる。

 戦時中の100総トン以上の鋼船船腹の推移は下表のとおり。カッコ内の数字は物動対象船(不稼働船を含む)を示す。

昭和16年12月 2,529隻 633.7万総トン
(  584隻 177.8万総トン)
昭和17年10月 2,632隻 615.8万総トン
(1,064隻 268.9万総トン)
昭和18年10月 2,749隻 554.7万総トン
( 809隻 202.7万総トン)
昭和19年10月 2,638隻 385.3万総トン
( 943隻 188.0万総トン)
昭和20年  8月 2,018隻 220.7万総トン
( 653隻 131.5万総トン)

 もちろん戦時中にも船舶の建造は行われた。第1次~第3次戦標船(戦時標準型船)合計1,036隻、263.6万総トンがそれである。しかし戦標船の質の低下は覆うべくもなく、材料の払底により、政府によって木造船の増産計画が立てられるほどであった。

 この場で先の戦争についてあれこれ論ずるのは適当ではないと思う。しかし木造船を建造せねばならないような惨憺たる状況下で強引に戦争を継続しているうちに、終戦の時期を誤ったことは否定できないだろう。

 
一方戦争海難によって失われた船腹は以下のとおりである。

昭和16年    9隻   4.8万総トン
昭和17年  204隻  88.4万総トン
昭和18年   426隻 166.8万総トン
昭和19年 1,009隻 369.4万総トン
昭和20年  746隻 172.2万総トン


 船舶とともに多くの船員が犠牲になったことはいうまでもない。

終戦へ

 こうしてずるずると無理な戦争をつづけているうちに、南埠頭は壊滅的な損害を受ける。

 昭和20年7月14日、米軍の空襲により南埠頭は甚大な損害をこうむり、石炭ローダーは無事であったが、上屋は5棟が貨物とともに焼失、わずかに1棟のみ焼失を免れるという惨状であった。

 この空襲について『三ツ輪運輸五十五年史』から引用すると、

 20年7月の釧路空襲は、14日に5回攻撃機延93機、15日に3回攻撃機延12機が来襲した。14日だけで釧路市内は、北大通東部の旭国民学校から幣舞橋が一面の焼野ヶ原となって火焔が天をおおった。-p. 59

 そして、

 
昭和20年8月15日、終戦を迎える。

 昭和20年9月、太平洋炭礦春採坑再開。この年の貨物総輸送量は386,000トンに激減していた。


(つづく)

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December 01, 2011

Daily Oregraph: 腹一杯、胸一杯

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 今日は会社の創立記念日。昼には弁当が支給された。写真の料理のほかにご飯と吸い物が一椀ずつ。恐るべきボリュームであった。この不況下に、たいへんうれしいことである。

 あてがわれたものを残しては申し訳ないし、ぼくにとってはこれが最後の恩賜の弁当ゆえ、奮闘するも力及ばざるこそ悲しけれ。ああ、年は取りたくないものだ。

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 腹一杯になって帰宅すると、岐阜は大垣の住人麦穂亭から送られた大野町の富有柿が届いていた。ぼくみたいな男でも、腐っても先輩として気をつかってくれているのだ。まことにありがたいことである。

 そこで落ちぶれたとはいえ、貴族のたしなみとして(笑)、お礼に一首。

  
貧乏の神住みたまふあばらやにまばゆく光る富有柿かな

 富有柿はたいへん日持ちのする柿で、正月に食うとうまいのである。どうもありがとう。

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