Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (8)
2002年6月2日撮影 弥生中学校下 前方左中村水産跡
2007年5月3日撮影 沼尻川鉄橋通過中
今回は昭和21年から25年までの戦後復興期を扱う。復興期は一応昭和30年頃までと考えるべきだし、『臨鉄60年の軌跡』でもその頃を一区切りとしている。しかしやはり昭和25年はひとつの節目だろうと思うのである。
戦後の復興
昭和21年1月10日、前年にひきつづき旅客運賃改定を申請、3月1日実施された(10銭~40銭から20銭~1円10銭へ)。
昭和19年8月以来の出炭停止に加え、空襲により南埠頭上屋5棟が焼失したため貨物輸送量が激減し、経営は不振をきわめていた。さらに戦後の猛烈なインフレに見舞われたのである。
昭和21年11月、太平洋炭礦別保坑が再開される。
これは昭和20年9月の春採坑再開に次ぐものである。
昭和22年1月23日、旅客運賃変更認可を申請。1月31日認可、3月1日実施(20銭~1円10銭から50銭~1円50銭)。
昭和22年3月、石炭運賃を除く貨物運賃を倍額値上げ、さらに同年7月8日には大貨物営業粁程を20割増から70割増へ変更。
昭和22年4月25日、旅客運賃変更認可を申請。7月5日認可、7月8日実施(50銭~1円50銭から1円~6円50銭)。
このあたり、インフレの進行のすさまじさがよくわかるので、旅客運賃改定については、煩をいとわず記載する。
昭和22年8月、渡島海岸鉄道より客車一両(キハ101号 定員54名 機関を取り外し、蒸気機関車牽引)を譲り受け使用開始。
昭和22年8月、太平洋炭礦興津坑の開削に着手。
昭和22年10月、太平洋炭礦桂恋坑を開坑(昭和32年閉鎖)。
太平洋炭礦もまた着実に復興の道を歩んでいた。
昭和23年1月30日、埠頭1号上屋(1,653平米)が復旧・完成。
昭和22年~24年の3年間、東京の食料危機に対処するため、馬鈴薯(総計53,994トン)および木炭(総計48,436トン)を貨車輸送により南埠頭に集積し、海上輸送した。
これは新知識。北海道の底力を感じるエピソードである。
昭和23年2月16日、臨時株主総会を開催し、復旧上屋建設にともなう建設費借入金償還資金に充当するため、資本金を500万円(総株数10万株)に増加。
昭和23年5月7日、旅客運賃変更認可実施(1円~6円50銭から3円~18円)。
昭和24年5月5日、旅客運賃変更認可実施(3円~18円から5円~15円)。
昭和24年6月16日、埠頭上屋5号上屋(608平米)新築工事竣工。つづいて6月25日には本社附属倉庫(463平米)新築工事竣工。
2011年11月26日撮影 紫雲台から見た興津のズリ山
昭和24年8月、太平洋炭礦興津坑を開坑、出炭を開始した。
昭和24年9月28日、東釧路~城山間1.880kmより分岐する長谷川木工工場専用側線(延長72m)新設。
急ピッチで復興の進む様子がわかる。
昭和24年11月、太平洋炭礦別保坑を閉鎖、春採海底炭採掘に集約。
昭和24年11月、別保~東釧路~春採間に、太平洋炭礦春採坑に通勤する礦員の専用通勤列車(国鉄客車2両編成)の運転を開始。
別保坑の閉鎖にともない、春採への通勤専用列車を開始したのである。このあたりの歴史については、ぼくもそうだったが、もはや知らない市民のほうが多いのではないだろうか。
昭和25年1月1日、営業粁程70割増を廃止し、実粁程を実施、4月1日には貨物運賃併算制に変更。
昭和25年4月1日、旅客運賃変更認可実施(5円~15円から10円~20円)。
昭和25年4月、船舶の民営還元実施。
戦後日本の船舶はGHQの管理下に置かれ、船舶運営会によって配船されていたが、
24年9月1日800総トン未満の小型船舶の民営還元がなされ(中略)、さらに25年4月1日を期して帰還輸送その他特殊用途の船舶を除き全面的な民営還元となった。対象船舶は601隻7万5千総トンである。-『三ツ輪運輸五十五年史』 p. 74
昭和25年には、4月には日本郵船の貨客船雲仙丸(釧路~芝浦定期)が初入港し、5月には戦後初の外航船が入港するなどの動きがあった。
昭和25年6月25日、朝鮮戦争勃発。
この不幸な戦争によって特需が生じ、昭和25年の太平洋炭礦の出炭量(667,500トン)は、戦前の最高を記録した昭和16年のそれ(669,316トン)にほぼ回復したのであった(『釧路叢書 春採湖』による)。
昭和25年8月25日、臨時株主総会を開催、機関車・客車増備、社宅新築等の資金に充当するため、資本金を1,000万円(総株数20万株)とする。
昭和25年12月、北埠頭が完成。
昭和25年11月20日、国鉄払い下げの蒸気機関車(英国製2120.0C 1)1両を10号機関車として導入、12月より使用開始。
以上ざっと見ただけでも、昭和25年頃が戦後史のひとつの節目であったことはまちがいないと思う。朝鮮戦争はもちろんだが、復興期の釧路港湾業界の動きなど、酔っ払いの手に余ることはすでに申し上げたとおりだから、ここでは深入りしない。
(つづく)
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Comments
興味深いです。
やっと生まれ年に届きそう。(笑)
Posted by: スコップ | December 06, 2011 19:58
>スコップさん
えっ、スコップさんはそんな昔にお生まれになったのですか? さっそうと砂浜を走るところなどは青春ドラマさながら、もっとお若いかと思っていました(笑)。
それにしても通勤専用の列車があったんですね。知らないことばかりで、ほんとうに驚きます。
臨鉄の客車、もう一度乗ってみたいものです。
Posted by: 薄氷堂 | December 06, 2011 20:30