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December 11, 2011

Daily Oregraph: 戦時中の雲仙丸

 先日写真をお目にかけた雲仙丸について、『日本郵船戦時船史』(昭和46年初版 平成7年復刻版 日本郵船株式会社発行)の記事をごく簡単にまとめてご紹介したい。釧路に縁のある一隻の船の歴史をたどることが、戦争について考えるひとつのきっかけになるにちがいないと思うからである。

 この『戦時船史』は上下2巻の大冊である。たいへん貴重な記録であることはもちろんだが、読み物としてもすぐれており、一般の読者の目にふれにくいことは、まことに残念というほかない。もし機会があったら、ぜひお読みになるようおすすめしたい。

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   雲仙丸-『日本郵船戦時船史 下巻』より

 まずは雲仙丸の主なデータについて。

 船  種   旅客船
 総トン数   3,140トン
 長  さ    92.54米
 主  機   レシプロ 一基  2,100馬力
 速  力   13ノット
 竣  工   昭和17年10月10日
 建造所   三菱重工業 横浜船渠
 徴用種別  船舶運営会使用船
 備  考   昭和29年8月20日 運輸省航海訓練所へ売却

 当時の船舶の船体各部名称については、下図をご参照いただきたい。

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   『日本郵船戦時船史 下巻』より

 さて

 (当社)保有船舶の大部分は軍用に徴せられた。当社海陸従業員にしてあるいは応召中戦死し、あるいは業務中殉職し、また戦災によって非業の死を遂げたもの、その数合計五、三一二名の多きに達した。戦禍による当社喪失船は一七二隻、一〇三万総屯に達し、創業以来苦心建設した大船隊はほとんど壊滅に帰した。-『七十年史』(昭和31年 日本郵船株式会社)

という悲惨な状況で戦後を迎えたわけだが、雲仙丸は沈没を免れ、『戦時船史』では「残存船」として分類されている。しかし本船も戦争海難に遭遇しなかったわけではない。

 以下の引用・要約は『日本郵船戦時船史(下巻)』によるが、原文は無駄のない文章なので、要約の大部分が丸写しに近くなったことをお断りするとともにお詫びしておきたい。

 本船は当初門司~大連航路に就航する予定であったが、竣工後は門司~上海航路の貨客輸送に従事し、昭和18年中ごろからは新潟~羅津(朝鮮半島北東部)間の航路に就いた。

 第一回目の遭難は、

 昭和十八年十月一日午後六時十分ごろ、日本海のほぼ中央で、魚雷が右舷中央部に当たった。しかしこのときは不発で機関室にわずかに浸水して多少の石炭が流れ出す程度であったので、雲仙丸は暗やみを利用して全速で逃走し、翌朝早々に羅津に入港した。関釜連絡船崑崙丸が敵潜水艦の魚雷によって沈没し、多数の犠牲者を出したのは、雲仙丸が遭難して四日後だった。

 その後本船はいったん新潟~樺太間の航路に転じたのち、ふたたび新潟~羅津間の航路に復帰し、敦賀~清津(朝鮮半島北東部)間航路にも就航した。昭和20年当時は敦賀~清津~羅津航路に就航していた。

 第二回目の遭難は昭和二十年六月のことであった。

 それまで本船は日没前に敦賀を出て、越前岬で護衛艦と分かれ、夜陰に乗じて一気に日本海を抜けて北朝鮮へ向かうコースを取っていた。しかし舞鶴鎮守府に呼び出された船長は、コースを変更して山陰の沿岸を通り、釜山沖に出て、朝鮮半島東沿岸を北上するよう命令された。

 船長は潜水艦の出没位置から考えて、沿岸コースはむしろ危険と判断し、意見を具申したのだが認められなかった。六月二十三日、本船は乗客千名以上と軍需貨物を満載して敦賀を出港したが、船長の不安は的中することとなった。

 夜になって経ヶ岬を通過するころB29のものらしき爆音が聞こえてまもなく、境港方面の空に照明弾が輝き、船長が非常呼集のベルを押すのとほとんど同時に、地蔵岬付近らしき海岸で爆発が起こり閃光を放った。照明弾によって誘導された潜水艦の発射した魚雷がそれて、海岸で爆発したものと判断した船長は、境港外に待避し仮泊、夜明けを待った。

 六月二十四日未明、抜錨して航行を開始してまもなく、昨夜B29が付近に投下した時限機雷が右舷後尾で爆発し、海水がシャフト・トンネルに浸入したが、水密扉を閉鎖して食い止めることができた。

 船長は乗客の生命を優先して、断然航海の続行を中止し、境港で乗客を降ろすと、いったん敦賀に戻って貨物をすべて揚陸して、(修繕のため)富山県東岩瀬の日本海ドックへ向かった。しかしその途中、極力沿岸航路を取っているうち、石川県羽咋の砂浜に坐洲してしまった。本船が自力で離洲するまでに要した約二週間のうちに、敦賀市は七月十三日の大空襲によって焦土と化した。

 戦後本船は引き揚げ輸送に従事し、昭和二十一年十二月五日、ソ連地区からの引き揚げ船第一船として、樺太残留一般邦人九百二十八人を乗せて函館に帰港している。三千総トン級の船にこれだけの人数を乗せたのだから、船艙はすべて超満員で、乗客には粗食を供するのが精一杯だったという。

 ちなみに昭和二十年七月四日現在の乗組員名簿によれば、本船の乗組員は、船長以下役員二十一人、甲板部十八人、機関部十七人、事務部(司厨員等)二十六人の合計八十二人であった。

 本船は昭和二十四年四月まで船舶運営会使用船であったが、昭和二十五年四月には釧路港に初入港し、釧路~東京航路に就航したことはすでに述べたとおりである。

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