知人駅構内と南埠頭全景(昭和12年)
『臨鉄60年の軌跡』 p.58 より
前回知人貯炭場の木製桟橋について触れたが、『臨鉄60年の軌跡』に写真が掲載されていたのでここに転載させていただく。この写真は『釧路港開港百年記念誌』(2000年 釧路新聞社刊)にも掲載されている。
結局木製桟橋は現在あるコンクリート製のものと基本的に同じ構造のようである。さすがに写真の転載は気がひけたけれど、こればかりは写真がないと想像しにくいので、どうかご容赦いただきたいと思う。
さていよいよ昭和期に入り、今回は昭和9年までの出来事を扱うこととする。
南埠頭の完成
昭和2年2月20日、8,710km の地点に仮設入舟町停車場を開設して旅客取扱いを開始。この仮設停車場は、昭和15年10月24日9,268kmの地点に入舟町駅開設営業開始まで営業。
第2回に掲載した昭和7年の地図にこの停車場が見あたらないのは、当時はまだ仮設だったからではないだろうか。
昭和3年11月11日、別保信号所が東釧路駅と改名され、一般貨物取扱駅に昇格。
このように着々と路線が整備される一方、南防波堤の完成(大正12年)に引きつづき、大正15年に着手された岸壁工事も進んでいた。
昭和4年3月、市営の釧路港船舶給水岸壁竣工。
2006年11月26日撮影 南埠頭(石炭ローダーでは積荷中)
これが釧路港最初の商船岸壁、南埠頭(延長約310m)である。石炭ローダー部(施設延長217m)には5,000載貨重量トン級1隻が接岸できる(「釧路港要覧」による)。
地味な場所だから観光コースには組みこまれていないようだが、釧路港でもっとも古い南埠頭は一見の価値があると思う。
さて財政の逼迫していた釧路市は、岸壁を含む市営埋立地を釧路臨港埠頭に貸付けることとなったが、
契約の要点は、市有埋立地(34,639平米)を釧路臨港鉄道に年額29,610円で賃貸し、その条件として同社が釧路市に47万円を貸付け、その利息は土地賃料と同額とし、期間は満20年とするもの
で、期間満了後釧路市は同社の岸壁上施設を買収する権利を保有するというものであった。
一方、釧路市が借入金額を償還できない場合は市有埋立地の所有権は同社に移転し、また市有埋立地を将来処分する場合は、同社は優先して譲受けの資格を有す
ものとされていた。
昭和5年、釧路臨港鉄道株式会社によって8,048kmより分岐する岸壁側線(総延長1,426km)敷設、1号上屋(1,653平米)の新築工事が行われ、12月24日竣工。
接岸荷役の開始
昭和6年3月12日、釧路港市営岸壁(現在の南埠頭)にて第一船である栗林商船神瑞丸(4,675トン)が、釧路港における初めての本格的接岸荷役を開始、最初の揚荷貨車積み輸送が行われた。
揚荷過燐酸肥料1,711トン、積荷は富士製紙の巻取紙・角判紙104トン。それまでの艀荷役よりも荷役賃が低減、荷役能率も向上した。
これは釧路港の歴史上特筆すべき出来事といってよいだろう。艀荷役と接岸荷役では、能率が段ちがいだからだ。なお富士製紙はのちの十條製紙、現在の日本製紙である。
石炭の荷役については、昭和14年に石炭ローダーが完成するまでは、トロッコとコンベアを用いて直接本船に積み込む方式を取っていたという(『釧路港開港百年記念誌』による)。
昭和7年6月7日、2号上屋(661平米)増築。
昭和8年2月20日、3号上屋(1,653平米)新築。これにより貨物総収容量7,000トンに達する。
昭和9年2月、釧路臨港鉄道株式会社は市有埋立地(地積34,579平米)を釧路市より72万円で買収、南埠頭は同社の所有するところとなった。
結局市の財政事情はひどく苦しかったらしい。恥ずかしながら、ぼくはこの事実を知らなかった。郷土史もたまには勉強してみるものである。
昭和9年7月31日、臨時株主総会にて増資を議決。資本金250万円・総株数5万株となる。
昭和9年11月25日、南埠頭に4号上屋(595平米)新築。
ついでにこの間の鉄道路線の整備状況について見ておこう。
昭和4年12月17日、東釧路~春採間の線路勾配改良工事竣工。これにより翌日より同区間の旅客運輸を開始。
昭和8年11月14日、東釧路駅構内臨鉄社線より分岐する新田練乳・ベニア工場専用側線(延長260m)新設により、根室線・釧網線と連絡する原乳・ベニヤ製品等の輸送を開始。
昭和9年11月25日、沼尻川鉄橋完成。
2005年11月19日撮影 沼尻川鉄橋
『臨鉄60年の軌跡』に掲載されている写真を見ると、当時の沼尻川鉄橋は現在とほとんど変わらない。
(つづく)
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