Daily Oregraph: 【特集】 臨港鉄道と石炭列車 (6)
2007年5月24日撮影 知人の浜手前にて
2005年9月19日 知人駅手前にて
臨港鉄道の線路沿いはぼくのもっとも気に入っている散歩コースである。何度歩いたか数えたこともないが、カメラを手にしてからは歩くたびに必ずシャッターを切っている。たまに列車に出くわすとうれしくなることはいうまでもない。
さて今回は昭和10年から太平洋戦争開戦までの時期を扱うことにしよう。
太平洋戦争開戦まで
昭和10年3月5日、沼尻~知人間6.136kmより分岐する中村水産工場専用側線(延長60m)敷設、水産物加工品等の国鉄線連絡輸送を開始。
これを読んだだけでは、素人には中村水産工場の位置はわかりにくい。そこで『臨鉄60年の軌跡』所収の昭和17年5月改正ダイヤを見ると、起点(東釧路駅)からの累計粁程(粁=キロメートル)は、春採3.3、観月園4.6、沼尻5.6、米町6.7、知人7.4となっている。
もし起点から 6.135km地点だとすれば、沼尻駅と米町駅との間にあたる(すでに掲載した昭和7年当時の地図ご参照)。当時の米町駅の位置は大体推測できるので、最近の地図上でそこから約0.5km沼尻方向にコンパスを当てると、
2011年9月4日撮影 中村水産跡の地点
これまで当ブログで何度かご紹介した、中村水産の産業遺跡の位置にピタリ符合する。写真下に見える「3.0」の数字が、現在の春採駅を起点とするものだとすれば、3.3+3.0=6.3だから、当時の側線はこのほんの少し手前にあったと見ていいのではないだろうか。
なんだか胸がワクワクするけれど(笑)、もしこの推測に誤りがあればご指摘いただきたいと思う。
昭和10年9月、客車にガソリン動車1両(日本車輌製。キハ1 定員30名 出力26.8kw)。
城山駅とガソリンカー(昭和12年)
『臨鉄60年の軌跡』 p. 55 より
牽引されるのではなく単独で走る、たいへんコンパクトな車両である。やはり写真がなくては想像困難なので、勝手ながら写真を転載させていただいた。
この客車がいま走っていたら大人気だと思う。もちろん生活路線としての再生は望めないから、採算は取れないだろうが。
昭和11年10月、南埠頭5号上屋(463m2)が、同年11月には6号上屋(496m2)を新築。これにより上屋合計6棟(5,521m2)となる。
まだ石炭ローダーは完成していないが、これで岸壁上の施設はほぼ完成に近づいたといえるだろう。
昭和12年1月10日、昭和10年に着手し、昭和11年12月12日に開通した東釧路~城山間の運輸営業を開始。
昭和12年7月、日華事変(日中戦争)勃発。石炭の需要急増により、8月に同形式蒸気機関車(6号)1両を新造・導入。
いわゆる盧溝橋事件である。これ以後次第に戦時色を帯びた記載が増えてくる。
昭和13年12月、春採駅構内拡張工事に着手。
昭和14年7月知人貯炭場1号高架桟橋(コンクリート製 延長159m)完成。太平洋炭礦石炭積込ローダー完成、7月26日初の積込作業開始。
2002年1月12日撮影 積荷中の石炭ローダー
いまの石炭ローダーが何代目なのかはわからないが、ぼくが入社当時南埠頭の石炭船に通っていたころのローダーは先代。ローダー2基で、5,500トンの石炭をたしか3時間10分~15分ほどで積み終わるという優秀な機械であった。
昭和15年8月23日、臨港~入舟町間(0.816km)が開通し、翌日より営業開始。これにより、城山~東釧路~春採~知人~臨港~入舟町の釧路臨港鉄道線(11.440km)が全通した。
これで釧路臨港鉄道は一応の完成を見たわけだが、現在残っているのはわずか春採~知人間のみだから、時代の流れとはいえさびしいものがある。せめて現在の路線は長くつづいてほしいものだと願わずにはいられない。
昭和15年9月20日、臨港駅構内に陸軍専用の側線(延長354m)敷設。
昭和15年10月24日、9,268kmの地点に入舟町駅開設営業開始。
昭和15年11月25日、春採駅構内拡張工事完了。選炭場専用側線延長、車両留置線新設、機関庫移転新築、春採駅本屋改築。
昭和15年、太平洋炭礦の年間出炭量100万トンを突破。
昭和16年8月、蒸気機関車(7号)1両を新造・導入、9月20日より使用開始。
昭和16年12月、海軍の要求により臨港駅構外側線(臨港~入舟町間延長300m)敷設。
昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発。
昭和15年度には出炭量100万トンを突破し、昭和16年度の貨物総輸送量は開業以来最高の1,289,000トンに達したというのは、一種の戦争景気なのだろう。
昭和16年の港湾運送事業統制令にもとづき、(昭和18年には)雑貨荷役のために釧路港運株式会社が、石炭荷役のために釧路石炭港運株式会社が設立される。
いわゆる戦時統制によって港湾事業者は一港一社に統一されたのだが、釧路港の場合は石炭の扱い量が多かったため、室蘭・小樽同様「石炭雑貨の二本建」として、雑貨部門では釧路港運が、石炭部門では釧路石炭港運が設立されたのである(釧路新聞社刊 『釧路港開港百年誌』による)。
なお太平洋戦争開戦により、港湾工事どころではなくなったため、
昭和13年、北埠頭築設工事着手されるも戦争のため中止となる(供用開始は昭和24年3月14日)。
という事実も記憶にとどめておきたい。
戦時下の釧路港湾業界といい、北埠頭の歴史といい、たいへん興味深いテーマなのだが、その方面にまで手を出すと収拾がつかなくなってしまう。たぶんそれぞれ本が一冊ずつできあがるのではないだろうか。酔っ払いは分をわきまえて(笑)、あとは大学の先生にお任せしたい。
(つづく)
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Comments
こんにちわ。とても興味深く読ませていただいています。住んでいるところの歴史って、知っているようで知らないものです。また、知人浜の手前の写真、とてもきれいですね。釧路の色が出ている!と本当に思いました。(どんな色かって言われると説明しにくいのですが、これは確かに私の釧路の色です)
Posted by: 川中 | November 30, 2011 11:35
>川中さん
どちらかというと面白みに欠ける内容じゃないかと思いますが、お読みいただいてありがとうございます。
意外に時間のかかるテーマですので、ゆっくり書きつづけようと思っています。
なお知人浜手前の写真は5月24日の17時50分ころに撮影したものです。この時期は日没が18時45分ころですから、中途半端というか、写真ファンが好む時間帯ではありませんね。
しかしぼくはこの微妙でもどかしい時間帯の空の色がきらいじゃないのです。特にこの場所では。
気に入っていただけて、とてもうれしく思います。
Posted by: 薄氷堂 | November 30, 2011 21:12